2014年10月26日

英語の力は、時々すごい2

更に追記。
反対語、対義語を、英語は考えやすい言語だ。


妖怪「心の闇」の反対語は何だろうと考えてみる。
darkness of mindであれば、
対義語はjusticeやfairになってしまう。
善悪二元論だ。

ところが、self-shadowと訳すのなら、
対義語はselfになる。
つまり、理性で統制のとれた、自分自身ということだ。
つまり、てんぐ探偵とは、
justiceがdarknessを裁く(裁くというのは、陪審員的な、世間に晒して判断させること)
のではなく、
selfがshadowを統御する話である、
と考えることが出来るようになる。
だから、単に妖怪を斬ることが真の解決ではない、
という僕の直感は、このような言葉で説明できるものになったりするのだ。


英語は、二項対立を考えやすい言葉で、
日本語はそうではない。
日本語は世界は二項対立を前提としているわけではない、
という考え方が前提だからだ。

一方、分析的理性や、ハリウッド的な物語論は、
西洋の理性(ベースは英語と同じゲルマン語)が発祥である。
だから、英語でものをとらえることのほうが、やり易いときもある。

理系出身の豆知識。数式は英語の構造で見ると分かりやすいよ。
A equals B. Because…なんてのは、数学的証明の構文だよね。
∵)は、becauseのことだし。
虚数という訳語で、我々は実の世界と虚の世界の関係を考えはじめて混乱するが、
imaginary numberと言われれば、
そういう約束事上の架空の数(架空口座のような)と楽に考えられる。
(それこそいけちゃんのようなimaginary friendなのだ)
大学数学になると、s.t.なんてsuch that構文が頻出するし。
ターンエー記号なんてanyと考えたほうが早いし、
集合論は殆ど前置詞の世界だし。



さて、一方我々のなあなあ的な、円環的な、空気的な日本語は、
劣るのではなく、何か独自で優秀なことが出来ると考えることも出来る。
日本語と韓国語だけが、格文法構造を持たない膠着語であることは、
何かしらのギフトをもたらすと思うのだ。

今回は、考え方の道具としての英語の話。
面白い話には、そういう概念的な新しい発明が入ることもある。
posted by おおおかとしひこ at 13:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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