2014年10月27日

一堂に会するクライマックス

色々と困ったら、登場人物を全員一ヶ所に集めよう。
突然、緊張が走るはずだ。

クライマックスとは、その緊張のことだ。
何故それぞれがその場所で集結するのか、
という理由さえ無理にでもつくれれば、
それがクライマックスになるのである。


登場人物全員がそこに集まったとき、
それぞれに緊張が走らないのなら、
何も対立がないということだ。

それではクラスの初日のようで何も起こらない。
色々あったクラスの最後の日のほうがクライマックスだ。

人間ドラマでもそうだ。
もう会いたくない人に会わなければならない事情を考えよう。
どんな理由で会いたくないか、
どんな理由で会わなければならないか、
その理由がドラマであり、
会ったときに何が起こるかがドラマだ。

会ってもさして話すことがない登場人物を、
会わせてもしょうがない。
会うことが出来たのなら、
話をしたいこと、決着をつけたいこと、決めたいことなどがある、
その状態で会うのが面白い。


パーティ会場などは格好の一堂全員集合の場所だ。
邦画のクライマックスは、結婚式がよく使われる。
「ノッティングヒルの恋人」のクライマックスは、記者会見だ。

ドラマとは、
個人と個人の間でなされていたことが、
皆に知られ、決着がついたことで、皆にどんな意味があったか、
確定することで終わる。
個人と個人の間でのみの決着ではだめで、
それが関係者という社会に、どのように認識されたか、
までを含む。
(正しく誤解なく伝わった、でもいいし、
真実は伝わらずにすんだ、でもいい)
エンドにおける、意味(テーマ)の定着は、
そのように社会に晒されることで決まる。

あの人とあの人がつきあったとか、別れたとか、
あの人があの人を殺したとか、
あの人があの人を認めたとか、
個人と個人の間の話だけでなく、
社会に共有されたとき、それが既成事実として定着し、
その行為の意味が定まるのだ。

だから、パーティ会場やマスコミのいる場所は、
格好のクライマックスの場なのだ。
ハリウッドでは、救出のヘリやパトカーが来て終わりのパターンも多い。
「トッツィー」のクライマックスは、生放送ドラマの最中に、
自分は実は男だったとカツラを脱ぐところだ。
試合中継を皆で共有するクライマックスも、よくあるパターンだ。


なるべく、一堂に会したときに、緊張が高まるように、
因縁や関係性を仕込もう。
一番会いたくないあいつと会うはめに、
一番会いたい人とようやく会えるように、
気持ちの深さや葛藤の大きさや、事情の複雑さを仕込もう。
そして、その時にどんなドラマが起きるのかを考えよう。

あとは逆算すればよい。
何故彼らが、その日その時、偶然でも必然でもいいから、
何の理由でその場所へ行ったのか。

変わった場所でのクライマックスは、
新しい緊張をつくれるだろう。
危険な場所がクライマックスになりやすいのは、
人間関係の緊張に上乗せするためだ。

アクション映画なら動的な場所に、
人間ドラマなら静的な場所に、
集結することが多い。
そこで何が起こるのか、相応しい場所が多い。


物語とは、主人公のまわりの点で始まったことが、
周囲に次々に波及していくことでもある。
そのリアクションの結果、
人間関係にヒビが入ったり、結束したりすることでもある。
最初は点だと思われたことが、
最終的にその社会まで波及して、
その社会にどう受け入れられるかまでが、
事件の解決に含まれる。

このときの社会は、全国に通知されるレベルでもいいし、
関係者全員という狭い社会でも構わない。
(セカイ系は、これが地球全部と僕たち二人、という、
極大と極小の社会のみの存在が特徴的である)
狭い社会ではこのようなこととして認識され、
マスコミ発表はこのようにした、などはよくあるパターンである。


クライマックスさえ考えられたら、
あとは因縁や緊張をつくっていけばいいだけだ。

トーナメントや試合は簡単だ。集まる理由があるからだ。
あとは対戦相手の因縁が面白いかどうかだ。
試合とは、人間関係の争いの安全な形式であるから、
その最もシンプルな形なのだ。

一堂に会する場所と理由を考えよう。
それさえ思いつけば、クライマックスの半分は出来たようなものだ。
posted by おおおかとしひこ at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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