continuityのこと。
連続すること、つづき、一連のもの、などの意味だが、
一言でいえば、流れだ。
コンテに静止画的なアングルがあってはならない。
それは事態の静止を意味し、
内容の停止と死を意味する。
物語とは、静止状態からはじまって、
物事が動きだし、再び静止するまでの流れのことをいう。
最初は一見どちらにも事態が動かせない、
発展もしようがない世界が描かれる。(初期設定)
それがきっかけによって、事態が動き出す。
それが100分ぐらいあるのが映画だ。
そして最後はまた世界は静止する。ラストシーンだ。
この最初と最後の静止状態の差を変化という。
全く同じになっては詰まらない。
それまでの努力は何だったんだ、となるからだ。
世界は悪くなった、という変化もあまりオススメではない。
努力や頑張りが虚しくなる、痛烈な批判以外は、
頑張って付き合った観客たちが、それをどう取ったらいいか分からなくなるからだ。
だから、変化とは、大抵よい変化のことだ。
世界は変える価値があるもので、その変えた価値は意味のあることだ、
というのが文学の基本だと思う。(その価値こそがテーマ)
さて、映画とはこのような、
流れの構造をそもそも持っている。
従って、その撮影計画であるところのコンテは、
その動きを表現するものである。
役者の動き、カメラの動き、背景の動き、モブの動き、
乗り物の動き、火や水や風や煙などの動き。
それらの動きが、物語の動きの代わりになるのである。
つまり、映画とは、画面の中の動いているもの(モチーフ)で、
動いていること(内容、テーマ)を表現する芸術形式なのだ。
従って、その撮影計画かつ編集計画であるところのコンテは、
どのような動きで、内容の動きを表現するか、
というものでなければならない。
だから、絵の上手い下手は関係ない。
動きが描かれているかどうかが、上手い下手に関係する。
静止画的な絵しかかけない人がいる。
それは、絵が下手なのではなく、
頭のなかで動きをつくるのが下手なのだ。
そういう人は映画に向いていない。
画家や写真家など、時間軸を持たない芸術をやるほうがよい。
コンテは、動きの計画だ。
そのようなコンテの為には、
そもそも内容が動いていなければならないが。
今一度「12人の怒れる男」を研究するとよい。
話の動きと、役者の座っていないほうの動きが、シンクロしていることに気づくだろう。
この動きこそが、撮影計画かつ編集計画であるところのコンテに、
描かれるべき部分だ。(あとはカットを割るだけだ)
僕はコンテは「振り付け」だと思っている。
絵コンテを描く人は、絵師ではなく、振り付け師でなければならない。
もし静止画的な絵ばかりのコンテだとしたら、
コンテを切った人間がこのことを分かっていないか、
物語に動きがない駄目な脚本のときだ。
2014年10月27日
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