2014年10月28日

コンテンツという罪

コンテンツということを業界が言い出してきてから、
僕は質が下がったと思っている。
敷居は下がったかも知れないが、質も下がった。


コンテンツではなく、もともと作品だ。
しかし作品というと、観賞とか批評とか歴史とか、
なんだか難しいものという敬遠が起こる。
コンテンツと呼ぼうが作品と呼ぼうが、
人間の奥深くをとらえ、心を揺るがせれば、
僕はそれが芸術だと思っている。
人間とはこのような、楽しい、悲しい、価値のある(ない)存在だよね、
ということを、独自のやり方で深くとらえたものが、
物語の芸術だと思っている。

ところが、コンテンツ側は、そこまで要求してないですけど、
というエクスキューズをしている気がする。

エンタメ作品よりも、さらにバラエティー色があり、
何でもいいから人目を止めることを第一としている気がする。
漫才や手品もスポーツもコンテンツになる。
アイドルの歌もバラエティーもコンテンツになる。
変わった仕掛けをつくったりイベントをやってもコンテンツになる。
(最近のCMはこんなのばっかだ。昔は作品クラスがごろごろしていて、
だから僕は業界に入ったのだが)

ネットとテレビの連動なんて言われて大分たつが、
結局起こったことは、番組がコンテンツになったことだ。
その時間が埋まって、その間、人がわあわあ言ってれば、
内容の質は問わない、ということになった。
いつも安定のクオリティで信頼されるものを出したり、
さらに良いものに挑戦することより、
新規の仕掛けでやり逃げしてしまうことが善となった。
だから、じっくり何かをやることは困難になり、
単発やり逃げがコンテンツとして正しいことになる。


作品は、質が何より重要だ。
そしてこの質を支えるには、膨大な失敗の裾野が必要だ。
コンテンツ化が進むと、やり逃げだから、
膨大な失敗の裾野で終了に出会う確率が増える。
そこで、質のよいものの追求がしにくくなる。
こないだは失敗だったではないか、と。

どんどん良くなっていって、じっくりと信頼される質をつくっていく、
という昔ながらの関係はなくなっていって、
ネットでの一回限りの点の繋がりのような、
とりあえず今5分面白ければいい、
みたいなことがコンテンツだ。
そのコンテンツを沢山かき集めたほうが優秀、
みたいな現状が今だと思っている。

作品をコンテンツと呼ぶようなやつは、
質を高める工夫とか、永遠の信頼をつくる、などという、
名前の出る商売が分からないだろう。

作品は記名式で、
コンテンツは匿名式だ。

コンテンツはだから、集団のプロデュースという作者の分からないヌエになる。


僕はそこにはいかないと思う。
脚本や物語というものは、コンテンツではないからだ。

ドラマや映画もコンテンツである、
などとなると、感情移入や焦点やテーマなどは不要で、
オリーブオイルで笑わせるだけの質の低いネタが重宝される。
(視聴率が落ちてよかった)
僕はコンテンツ化してしまったテレビやネット社会で、
作品の価値をつくっていくことを、今模索している。

まあとりあえず次回作だ。
てんぐ探偵第三集、今月中か来月にはアップできるかな。
どこまで出来るか分からないけど、50話分のプロットは既に出来ている。
(ほんとは108話やりたいんだけどね。
21世紀の、心のブラックジャックを目指してます)
posted by おおおかとしひこ at 13:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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