ちょっと宗教くさいタイトルかも知れない。
しかし、自分なりに答えられないと、
物語をつくることは出来ない。
何故なら、物語とは幸せを扱うからだ。
同時に、不幸も扱うからだ。
(不幸とは、幸せでないこと。これも難しい)
不幸からはじまり、幸せで終わるのがハッピーエンドだ。
幸せからはじまり、不幸で終わるのがバッドエンドだ。
物語とは変化を扱うから、
基本型はどちらかしかない。
不幸→幸せ→不幸、幸せ→不幸→幸せ→不幸、などの変形はもちろんある。
幸せとはどういうことか、列挙してもよい。
その反対が不幸だ、と規定してもよい。
うまい飯と暖かい風呂が幸せならば、
不味い飯と風呂にはいれないことが不幸になる。
そんなシチュエーションに陥る事件とそこからの解決を具体的に書けば、
それだけでひとつの物語になる。
逆に、不幸を定義し、
そこからの脱出を描いてもよい。
モテないこと、が不幸ならばモテがゴールになるだろう。
多くの場合、不幸からの脱出のほうが難しい。
具体的ゴールの説得力と、具体的手段の納得性を描くのが難しいからだ。
戦争という不幸を描くのは簡単だが、
どうすれば平和になるかを描くことは難しい。
難易はおいといたとしても、
どちらにせよ、幸福と不幸は、物語のベースの状態だ。
これが動いたりゴールになること、
自分を幸福にすることや、ある人を不幸にすることや、ある人を幸福にすることが、
大抵の登場人物の動機だ。(自分を不幸にすること、だけはレアだろう)
一般的な幸福と不幸を描いてもよいし、
その人の幸福と不幸を描いてもよい。
そして大抵は、その人の幸福と不幸を描くことで、
一般的な幸福と不幸に通ずるようにするのだ。
(この場合の)幸福とは何か。
(この場合の)不幸とは何か。
それを文字に出来たら、その間の物語をつくることが容易になるだろう。
人としての幸福や不幸を考えるのは宗教だが、
個別ケースや特殊ケースの幸福と不幸を考えるのは文学だ。
そして、文学はときに深さで宗教を越えることもある。
2014年10月31日
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