2014年10月31日

沢山傷つこう

クリエイターになるには、沢山傷つくことが必要だ。


自分のつくったものの正直な感想を、なるべく沢山見聞きすることだ。
称賛されたくてつくるものだし、誉められると嬉しいが、
批判の刃こそあなたを成長させることを忘れないこと。

批判は、必ずあなたの気づかなかった無意識の部分を攻撃してくる。

だからあなたは必ず予想外のことを言われて傷つく。
予想された批判なら耐えられる。
理論武装や言い訳も用意してるだろうし、想定問答もしてるかも知れない。
しかし、予想外の批判は耐えられない。
それは、沢山の人に見せるものだからだ。

沢山の人は、本当に色んな考え方、色んな文脈で生きている。
その文脈でこれを見てほしくなかった、
という見方で見る人も沢山いる。

その沢山のケースに慣れることだ。
そして、想像力を鍛えるのだ。
沢山の人達がこれを見たらなんていうかを。

自分のファンは何をしても誉めてくれる。
しかし自分を傷つけ批判した人は、
どうやったらその不満を抱かなかったかを想像すること。
次似たような批判をさせないためにはどうすればいいか、
想像するのだ。

正確に言うと、
その批判をする部分をただ取り除くのでは意味がない。
なぜその批判が起こるのか理解すること、
なぜその批判が起こらない人がいるか理解することだ。

そして、次似たような批判をさせないために、
より面白くすればいいのだ。


僕は学生時代にボクシング映画を8ミリで撮っていて、
学生映画を初めて見るような人に、
「ベン・ハー」より迫力がない、と言われて凹んだことがある。
予算が何倍違うか考えてくれよ、と言い訳もしたかったが、
そんなもの関係なく、映画は映画と比べられる、
という事実を知った。

それは学生の僕を深く傷つけたが、同時に糧になっている。
予算が関係ない面白いものをつくれば、
オリジナルな面白さになるのだな、と考えるようになった。
その人は、低予算の風魔を絶賛した。
仮面ライダーの1/12の予算は関係なかった。
同時期にオンエアした原ミキ版キューティハニーの1/3でも関係なかった。
15年越しに、僕はリベンジしたことになる。



沢山傷つこう。
その批判はどういうことか理解し、
どうすればそれが起きなかったかを理解しよう。

欠点を切除手術しても、根本を治したことにならない。
それは欠点から目を背けることで、
臭いものに蓋をすることで、
トラウマに触れない怯えに過ぎない。

傷ついたら、その欠点を認め、時間をかけてでも、克服しよう。
大抵それは表現作法のような表面的なことではなく、
あなたの人生観や哲学に関することだからだ。
だから深く傷つくのだ。


僕は学生時代の映画で、
「お金をかければかけるほど凄くなるシーンで高揚感を得ること」が、
ただのハッタリだと気づくことが出来たのだ。
へぼい恋愛ドラマをそれで覆って隠していることに気づかれたのだ。

高揚感だよりの物語をつくるのではなく、
物語そのものが面白ければ、低予算でもそこを楽しんでくれる、
という、物語そのものの面白さとは何か、に気づけたのだ。
そこは、僕のクリエイターとしての誕生だったかも知れない。



沢山傷つこう。
そもそも、作品作りをする人は、
リア充なんかじゃなく、何かしら弱くて傷ついている人だ。
それを現実世界で晴らせないから、作品にエネルギーを注ぐのだ。
絶対的な孤独作業にも、耐えられるのだ。
しかしそのルサンチマンは、
称賛されて晴れることはないことを知っておこう。

いじめられてた子が、彫像をつくり誉められて、いじめはなくなった、
なんてのは現実にはない。
余計にいじめられて、益々孤独になり作品作りに逃避するだけだ。

ルサンチマンを晴らすために作品をつくるのは、
まだクリエイターとしては初歩の段階だ。
面白いねと認められたいのは、初歩の段階だ。
勿論その思いは、クリエイター人生で消えることはなく、
ずっとあなたをともし続ける。

初歩の段階を脱するのは、
沢山傷つけられても、なお次をつくるときだ。
下手なのはしょうがない。
下手でも「なかなか良い」ものをつくるには何をどうすればいいかを、
必死で考え、工夫したとき、クリエイターは初歩を脱するだろう。
それは、「ただ認められること」という受身から、
「こういう面白さがある」と攻めていく姿勢になるからだ。
攻めていくからには反発がある。
その反発(批判)を想像した上で覚悟してつくるからだ。

そのときに自分の作風というものに、向き合わざるを得ない。
自分は何者かを、傷つけられて、常に確認しなければならない。


クリエイターとは、傷つけられ続ける人生であり、
それを克服し続ける人生だ。

批判が怖い?誉めあう創作集団?
そんなもんはいらん。温室でぬるぬるやってろ。

外は吹雪だ。
posted by おおおかとしひこ at 13:11| Comment(4) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
僕も高1の文化祭のとき、渾身の自主映画の上映中に
次々と退室していく女子高生を見てどっぷりと凹み、

「ああ、これはダメだし、でもたぶん、
『タイタニック』を流してもみんな途中で出て行っちゃうかもな」

と思い、

「じゃあ次はハリウッド映画よりも釘付けにできる映画を撮らなければ」

という思いで翌年高2でリベンジしたことがあります。

劇場で観る映画ならなおさら観る人にとっては、
200億かけた映画も、500万でつくった映画も、同じ1800円。

おもしろかったかどうかでしか、勝つ方法はないですね…
Posted by ほら at 2014年10月31日 14:33
おお。「流星の侍」のほらさんですな。
コメントありがとうございます。

実際、クリエイターというのは、傷ついて死ななかった人だけが生き残るのです。
長年ぬるま湯で生きてる人もいますが。
西原理恵子の「毎日かあさん」に好きな台詞があって、
私立小学校に憧れる娘に「人生は上等な私立じゃねえ」と切れる場面。
汚い公立で、頑張っていきましょう。
Posted by 大岡俊彦 at 2014年10月31日 15:15
一介の劇作家です。
私、これで失敗しました。
相手を傷つけてしまったようで、こちらはアドバイスしたつもりでしたが逆切れされて。
「上演したことがあるのが、そんなに偉いの?何様!!」と。まあ、二度とその人には余計なことは言わないようにしようと思ってます。
耳に聞こえの悪い物を、普通の人は嫌がるんですね!
Posted by ケンロッパ at 2014年12月06日 13:30
ケンロッパ様、コメントありがとうございます。
そのような駄目な人を淘汰した、あなたは撃墜ポイント1という勲章を得ています。
或いはそれを糧に目覚め、のちの大作家になる、壮大な種を蒔いたかも知れません。

僕はいつもこんな感じで本当のことを言うので、大分嫌われるようです。嫌われないことがいいか、自分の信じる素晴らしいものを守ることがいいかは、自分で決めるべきでしょうね。
ということで僕は世渡りが上手くいっていません。

死んだあとでも評価されるものをつくっているつもりなので、運が良ければ発見されるかな、と思っています。
しかし世の中は、そういう価値観では動いてないですよね。
やる気のあるやつにしか、アドバイスしないほうがいいのかな、と最近は思っています。
或いはボコボコにするけど覚悟はいいか?と前置きすることにしてます。
温い人ほど不安で、誉めてほしいんですよねえ。

「かもめ食堂」の制作をやってた女子に忌憚なき感想を、と言われ、正直にあれは映画ではないと小一時間語ってあげたら、その後目を合わせてくれなくなりました。それを善ととらえるか悪ととらえるかですねえ。
Posted by 大岡俊彦 at 2014年12月06日 13:57
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック