2014年11月07日

小説家になるための脚本のトレーニングは意味あるか?

巷でよく言われることらしい。
脚本は、トレーニングになるぞと。
その理由はなんだろう。

地の文なしに話を構築しなければならないから、
と僕は考える。


脚本は、目の前にあること(登場人物の芝居、背景、小道具)
だけで話を語らなければならない。
小説の強力な武器、地の文を使わずに、
話を語らなければならない。

脚本は小説に比べ、武器が少ないのだ。

これは構成力がつく。


どんな場面の次にどんな場面がくれば、
それは何を意味しているのか、という、
構成による意味(モンタージュ)を、
脚本はしなければならないからだ。

つまり、小説ならば地の文で何もかも説明できるところを、
脚本では、構成によって、
明らかに読み取れるようにしなければならないのだ。


たとえば。
脚本ではこのような感じ。

○市場

   人々で賑わう喧騒の中。
   痩せて目の窪んだ少年(6)が目だけは光らせている。
   その先に魚が積まれている。
魚屋 「らっしゃいらっしゃい! いいの入ってるよ!」
   と、奥さんに声をかけた瞬間、
   少年が端の方の魚を盗んで逃げる。
魚屋 「オイ!糞ガキ!」
   魚屋、追うが少年はすばしこく、市場の迷路へ消える。
魚屋 「ちきしょう…」

それが、小説ではこんなだ。

 少年はもう三日も食べていなかった。痩せっぽちで目が窪んで、
目だけは光っていた。魚屋の主人が客に話しかけた隙を見て、
魚を一匹失敬して魚市場から逃げた。


勿論、一対一対応にするように、台詞を足したり、
状況を一致させたり、逃走の下りを描写することも可能だろう。
が、小説の地の文は強力だ。
「もう三日も食べていなかった」と書いてもいい。
脚本では、「もう三日も食べてないよ」と少年に言わせる
(下手な説明台詞)か、
バッサリ切って「飢えている」ことにするかだ。
(お腹が鳴る、なんて音の芝居を足してもよい)

また、脚本では、飢えた少年の目線の先に魚があれば、
これを食べたい、という意味のモンタージュになる。

小説では必ずしも必要ではない。
三日も食べていなかった、と既に説明されているからだ。
逆に、地の文に頼るがゆえに、
このようなカットの構成ということを、小説では鍛えないだろう。

これはミクロな一場面の例だが、
もっと大きな構造、シーンとシーンの関係、
ブロックとブロックとの関係などにも、
大きな意味でのモンタージュがある。
あるシーンのあとにあるシーンが来ればそういう意味だ、
ということが出来る。

小説では無言で繋いで意味を暗示するより、
地の文で説明した方が早いし、簡潔だ。
その手間をかける意味はない。労力もかかる。
ところが、これが出来る人にとっては、
構成で語る、ということが出来るようになる。


勿論、小説一本で構成力やモンタージュを身につけることは出来るだろう。
が、そもそも出来ない人は、より不便な脚本で鍛えたほうが早い。


小説に構成理論はあるのだろうか。
起承転結的なことだろうか。
ハリウッドの脚本論のような分かりやすい構成理論は多分ないと思う。
それをベースに日本人なりの脚本論を書いている人も、
僕を含め沢山いるだろう。
だから、小説よりも、構成のことについて多くの情報を得られやすい、
という現実的な側面もあるかもしれない。


他にも、台詞が上手くなるだろうことが予測される。
脚本に書かれる文字は、
8割以上は台詞だと思う。(内容によるけど)
小説では地の文が8割だろう。(内容によるけど)
言いにくい言葉は台詞にならない。
平易で伝わりやすい言葉でない限り台詞にはならない。
音で伝わる、リアルな台詞をつくらねばならない。

また、台詞によって場面を進行することも出来る。
市場の魚屋の例では、魚屋の台詞が、
実は場面進行を司っている。
説明台詞にならないように、
いかにもその人から出てきた自然な台詞であるように、だ。
しかし実質は説明台詞、進行台詞なのである。



つまり、
生きた台詞で進行すること、
構成でストーリーを語ること、
この二つが、
強制されるがゆえに、
小説を書くことより上達しやすいのではないだろうか。


僕が小説を書いてみて分かったことは、
地の文の便利さだ。
内面を書くことが出来るし、
状況説明が楽だし、
蘊蓄の挿入の楽勝さだし、
描写が相当主観的でも構わないことだ。

逆に映像前提の脚本では、
内面は行動や台詞の端からにじみ出さなければならないし、
状況説明は説明台詞なしでなるべく絵や行動で見せるべきだし、
蘊蓄は台詞に入れる分量に限るし、
主観的に凄くても客観的にたいしたことないことは凄くないから、
客観的に凄いことを考えつかなければならない。

「てんぐ探偵」第9話、「若いころ果たせなかった夢」の冒頭部分を、
脚本に書き直すことは出来ない。
これを脚本形式で書くことは相当の腕がいる。
それをショートカットして、
地の文だけで(いわば楽をして)書くことが出来るのだ。


小説力を鍛えるために脚本を書くということは、
ゲームでいうところの、縛りプレイだ。
地の文縛りで、物語を書くのである。
地の文を使わずとも話が自在に書けるように鍛えた時点で、
小説に戻れば、さらに豊かな内容が書けるようになるはずだ。



このブログを読む人には、小説を書く人もいるかも知れない。
その人はとりあえず無視して、
映像前提の話をし続けることにする。
posted by おおおかとしひこ at 15:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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