主人公は内的問題を持つ。
そして映画は三人称形式だ。
従って、
いずれ、主人公は自分の悩みを誰か他の人に打ち明ける。
(映画は、一人言で悩みを表現する舞台演劇ではない)
そのシーンをどこに持ってくるか、
誰に打ち明けるのか。
このドラマをコントロールすることは、
構成そのものに響いてくる。
中田カウスボタンの天才的漫才の、
天才的なツッコミを聞いて、僕はハッとしたことがある。
アホの坂田のような、変顔やおもしろいポーズを連続させて、
客を笑わせにかかるカウスを見て、
「お前の家は心配事ないんか!」
とボタンが輪をかけて笑わせる。
僕はここにハッとする。
殆どの家には心配事があるのだと。
そしてそれは、普段ないものとして、他人の前に出るのだと。
つまり、人は、本当は悩みを抱えているのに、
表面上ないふりをして過ごしているのだと。
それが人間だと。
話を分かりやすくするために、ウルトラセブンの例を。
主人公諸星ダンが自分の悩みを打ち明けるのは、
いつ、誰にか。
最終回、愛するアンヌにである。
ぼくはウルトラセブンなんだ、
と正体を明かし、地球から去るのである。
これは小学生当時の僕には衝撃だった。
自分の正体をばらしたら、嫌われるというトラウマのようなものを植えつけた。
しかも、一番わかってほしい人に打ち明けると、
その愛は終わらなくてはならないという悲劇。
ここからの教訓はふたつだ。
ぎりぎりまで悩みを打ち明けないドラマチックさがある、
ということ。
悩みを早々に打ち明ければ、相手のリアクションから、
その後のドラマをつくることが出来るということ。
今思えば、アンヌは「宇宙人でも構わないわ。結婚しましょう!」
というリアクションを取ることだって可能だ。
人間じゃなかったなんて、というのは昔の考え方だ、
という現代ドラマもありえる。
(むしろそれを第一回とした、アンヌの恋愛ドラマだってつくれるだろう)
「スパイダーマン2」が素晴らしいのは、このタイプの物語に決着をつけたことだ。
僕はラストに泣いた。アンヌとダンは結ばれたのだ、と思ったからだ。
さて。
僕はウルトラセブンなんだ、
僕はスパイダーマンなんだ、
は、仮面ヒーローの定番だ。
つまり、人間には、表の自分と本当の自分があり、
表面上悩みがないふりをしている、
という二面性を、仮面という具体物で象徴しているに過ぎないのだ。
この原理さえ分かれば、
仮面ヒーローを使わずとも、
本当の自分を、誰かの前で明かす、というシーンをつくることが出来るだろう。
悩み、すなわち内的問題を抱えた主人公が、
大切な人に打ち明けるシーンは、
だから非常に大事なシーンである。
普段ないふりをしてこれまで来たという二重性と、
大切な人の前でそれを崩すという動きがあるからだ。
打ち明けられた側のリアクションで、
今後のストーリーラインが大きく決まる。
「風の谷のナウシカ」では、ナウシカの密かにつくった植物園を、
ユパ様に見せるシーンがある。
このシーンが唯一彼女の悩みを打ち明けるシーンだ。
腐海の謎を解く、メインプロットと彼女の内面が重なる名シーンだ。
よし、これは二人の秘密だ、とする場合や、
明日にはそれがみんなに知れ渡っている場合もある。
(前者はシリアスで、後者はコメディに多い。
「ノッティングヒルの恋人」には、実は俺大女優と付き合ってて、
今行方不明のその人は俺の部屋に泊まった、と、同居人に言ったら、
次の朝家の前にマスコミが詰めかけて、という名シーンがある)
二人きりではなく、
何人かで共有する場合もあるかも知れない。
何人かで共有する中でも特別なことは二人きりで共有することはあり得る。
「スタンドバイミー」はそういう映画だ。
4人の秘密の旅だ。悩みを打ち明けながら旅をする。
それぞれに問題を抱え、大冒険のあと、少し成長する。
その時話したことは4人の秘密で、宝物である。
さらに特別な、給食費を盗んだ犯人が先生だという話は、
二人きりで共有する。それが特別な友情になる。
秘密の共有は、恋愛においては特別な関係を生む。
何でも話せることは、人間関係の特別さに比例する。
多くの恋愛ものでは、
今まで誰にも言っていない秘密を言うとき、
二人の関係が進展する。
主人公の悩みを、始まった当初は、
主人公の中だけで秘めているようにしよう。
それは一幕のセットアップの中で描かれる筈だ。
そして二幕の前半か後半で、
それを誰かに打ち明けるときが来るだろう。
その時物語が動くのだ。
打ち明けただけで主人公がスッキリし、
吹っ切れることもある。
打ち明けただけではダメで、
その内的問題を最終的には解決しなければならないときもある。
女同士の秘密の共有や、男同士の秘密の共有は、
違う性質を持つだろう。
今まで誰にも言ってなかった子供の頃の秘密を、
誰かに聞いてほしいときは、どんなときかを考えるとよい。
何故主人公はそれを言うのか、
何故今まで言わなかったのか、
そこに感情移入出来る具体的物語が生まれるのだ。
あるいは、詐欺師のテクニックにこれを応用出来る。
あなただけに重要情報が、なんてのは詐欺の常套だ。
敵の情報を手土産に寝返るのが戦国の常套だ。
悩みのない人物はいない。
正確に言うと物語の主人公ではない。
彼または彼女が、
最初の方でそれを打ち明けるのなら、
その人物は基本的には親友や味方だ。
(その思い込みを逆手にとって裏切り者にする手もある)
中盤や後半で打ち明けるのなら、
それはその人を愛したことの証拠だ。
人には表の自分と本当の自分がいる。
それを描かなくて、人間を描いたとは言えない。
いずれにせよ、その悩みはクライマックスで昇華する。
その劇的解決こそが、物語である。
僕の好きな打ち明けるシーンは、
「恋愛小説家」で、
今まで悪態ばかりついて嫌われてきた主人公が、
君の前では正しい人になろうと思った、というシーンだ。
あと、風魔10話の告白シーンね。
今のところ僕の最高傑作の場面のひとつ。
別に恋愛が絡む必要もない。
「俺は某国のスパイなんだ」ってのもいいし、
「俺実はカツラなんだ」ってのもいいし、
「俺実は女なんだ」ってのもいい。
(「サンセット大通り」での執事の正体の告白は、人間の業を描いた名シーンだ。
「シャイニング」でのお父さんの原稿で正体が分かるのも衝撃だ。
ジャックニコルソンをふたつも例で出してしまった)
「誰にも言えない」「正体」の二重性が、
ドラマをつくる。
「実は俺ドラゴンなんだ」は、
これらのリアルな二重性を、戯画化した、単純なものだということがわかるだろう。
(あれ?ゲロ戦記?)
今や死亡フラグギャグでしかない、
「俺戦争終わったら結婚するんですよ」も、
秘密の告白だ。
死を前に、人は本当の自分を晒したい(わかってほしい)と
思うのだろう。これも人間のドラマのひとつだ。
そしてその秘密の公開を、
いつ、誰に言うかで、話の構造が変わってくる。
誰に、を別の人に言うとしたら、を考えてみよう。
いつ、を別の時期に言うとしたら、を考えてみよう。
ベストタイミング、ベスト言う人、があるかも知れないし、
最悪のタイミングで、というドラマツルギーもあるかも知れない。
(あるいは、言えなかった、というドラマツルギーもある)
いずれにせよ、構成を左右する重要なシーンなのである。
2014年11月09日
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