主人公が悩みを打ち明けるシーンを考えているとき、
またもいつもの忠告がやってくる。
「自分を書いてはいけない」だ。
主人公の悩みが、あなたの悩みではいけない。
ついつい主人公を自分と同一視し、
自分の悩みを気持ちよく語ってはいけない。
そうすると、
他の登場人物が主人公(=自分)を「よしよしすること」を望んでしまう。
本当は、
誰の目にも明らかなように、主人公は悩みを解決しなければならない。
それがカタルシスだ。
それが、よしよしされるだけで解決してしまうのだ。
メアリースーはここに忍び寄る。俺ツエーがこのあとの展開の定番だ。
何故なら俺は本当は強くて認められていないだけで、
他の登場人物に悩みを告白したら、よしよしと受け入れられたからだ。
それがどれだけ幼いことか、真っ赤になって反省すべきだ。
おじさんが赤ちゃんプレイでフェラチオを要求している様を、
吐き気を催しながら想像しよう。
それが他人から見たあなたのメアリースーだ。
また、自分の悩みを主人公の悩みと同一にしてしまうと、
解決してもいない自分の悩みを、
作中で恨みを晴らして解決しがちである。
そこにリアリティーはない。
リアリティーのある解決を、あなたがそもそもしていないからだ。
それは童貞の想像する女性器のように、リアリティーのないものになるだろう。
観客は、あなた以外の全員だ。
その大半が納得するリアリティーをぶつけるのだ。
リアリティーとは、悩みではなく、
「悩みの解決」のリアリティーである。
だから、主人公の悩みは「解決可能な悩み」にしなければならない。
ある意味で、あなたは主人公より立場が上でなければならない。
あなたは、自分でも解決出来る悩みを、
主人公に悩ませなければならない。
何故なら、そうでない限り、「解決の面白いやり方」を描けないからだ。
それを知らないままに、主人公の悩みを自分の悩みにしてしまうのは、
作劇という苦しい行為からの逃避である。
現実から逃避して創作に逃げ、そんな弱い自分を書くことは、
創作ではなく記録である。
(日記にでも書け、とかチラシの裏にでも書け、とかオナニーとか言う)
作劇は、現実を反映して辛く苦しいのだ。
だから現実の苦しさのようなリアリティーがあるのである。
「悩みの解決のカタルシス」こそが、
人が物語を見る原因のひとつだ。
あなたは、悩める人々より、ある種上の立場に立たなければならない。
こうすれば悩みは解決できますよ、
という人生カウンセラーどころか、
やって見せようか、という人でなければならないのだ。
人生に関する深みを持っていなければ、それを書くことなど到底できない。
出来るから、先生と呼ばれるのかも知れない。
さて、それでも、ついつい主人公の悩みに、
自分の悩みを重ねてしまうのが人情というものだ。
これは、自分が感情移入しやすいからだ。
しかしそれは、あなたの感情移入のしやすさの指標にはなっても、
あなた以外の全員の感情移入のしやすさの指標にはならない。
ひょっとしたらあなた同様感情移入するかも知れないし、
あなた以外全く感情移入しないかも知れない。
(そして大抵後者だ)
客観性がない、と批評される多くのアマチュアの物語は、
このような構造を持っている。
何度もいうが、
主人公はあなたではない。
どこかの他人だ。
他人なのになんだか親しみが持てなければならない。
多くの人(あなたも含む)の、
感情移入出来る悩みを持たせるには、
あなたの悩みを背負わせず、
他人の興味深い悩みを背負わせるとよい。
自分の話だが、
「てんぐ探偵」とは、毎回心の闇を克服する話である。
それが全部俺の悩みだとしたら、
俺は悩み解決の天才ということになってしまう。
そうではない。
誰にでもある悩み、誰にでも出来る解決を考え、
それが面白おかしく描けるように、
感情移入出来るように、
書いていくのである。
人生相談100みたいな本やサイトを検索してみよう。
世の中は人生相談や悩みや解決であふれている。
世の中のリアルな悩みに触れよう。
そのどれが自分が反応するか、自覚しよう。
そのどれが世間が反応するか、自覚しよう。
そのどれなら、解決の物語が書けるか、考えてみよう。
「てんぐ探偵」は、そのようにして書かれている。
「心の闇」に相当するものを、数百個リストアップし、
解決の物語が書けそうなものから書き始めた。
主人公は、何に悩むか。
そして、それをどう解決するか。
それはあなたではなく、他人だ。
それが三人称形式の難しさであり、
それがいつの間にか感情移入によって自分と一体化していることが、
最高の面白さのひとつだ。
2014年11月09日
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