作品を仕上げたあと、自分の中にぽっかりと穴が開く。
達成感とともに、喪失感がある。
次の作品を生めるようになるまで、
しばらくこの状態は続く。
僕は女ではないので出産の経験はないが、
自分の一部を完成状態まで育てて外に出したことは沢山ある。
女性の産後の肥立ちは、6から8週間ぐらい見るそうだ。
僕らの創作の、産後の肥立ちはどうだろう。
赤ん坊と違って、
創作はいくつもを頭の中で育てることは出来る。
あるものを完成させたとしても、
もう別のものが育ちつつあることもある。
身体は、まだ創作中の癖を残している。
あそこの台詞をああしたほうがいいんじゃないかとか、
もっといい台詞を思いつくこともある。
それは、出来る限りメモしよう。
その中から拾えるものがない訳ではない。
が、大抵余計なものになる。
シンプルで、その場の文脈に体を浸して、
そのはりつめた空気で出した台詞より、
生きてない、説明的な台詞になったりする。
もっとも、更に良いものが出る可能性は0ではないから、
それはメモしておくとよい。
しかし、すぐに検討に入ってはいけない。
完成させたものは、一週間は一切見ないほうがいい。
メモはとりつづける。
そして、忘れた頃に、そのメモと完成作品を比較することがあるかも知れない。
しかしそのメモでは、劇的によくなることはない。
96が97になるぐらいのことだと思う。
70が95にはならない。70は71になるだけだ。
大きな点数を決めるのは、構造の段階、
つまりプロットの段階だな、ということが、書き終えたあとほど染みてくる。
だから、労力はそこにではなく、次回作に使うのが正しい。
たっぷり体を休めよう。
風呂に入り、気の済むまで寝よう。
もう調べものをしなくていい。
もうあれこれ人物の気持ちを考えなくていい。
もう言い回しの工夫をしなくていい。
もう机に向かわなくていい。
上手い酒を飲み、誘いを断っていた人と会ったりしよう。
しばらく作品を忘れ、
書いてなかった頃の生活を取り戻そう。
多分、映画を見たくなる。
しかも新作だ。
他のやつらはどうやってんだ?と気になってくる。
いい傾向だ。
作品の完成は過去であり、現在はもはや過去ではない。
新作映画を見て、たいしたことないぜ、と思うか、
やられた、俺はまだまだだ、と思うかは、
色々あるだろう。
しかし、その戦線の中にいることだけは確かだ。
過去作品を直したって、未来には繋がらない。
新しいアイデアを思いつく生活に戻ろう。
勿論、生みっぱなしではなく、育てるケアもしよう。
人に見せたり、意見を聞いたりすることはとても大事だ。
世間に受け入れられやすい形に出来るのなら、
そのような加筆訂正をすることもあるだろう。
しかし表面上の訂正をしたって、
ちっとも本質は変わらないことが、自分で分かるだろう。
本質はプロットの段階で現れていることが、
自覚的になるだろう。
装飾したり、過剰な装飾を外してシンプルにしたりしよう。
その本質を上手に提供することだけを考え、
本質を誤魔化すことに装飾を使うことはやめよう。
その装飾で騙される人しか、あなたのファンにはならない。
次回作を書くとしたら、と妄想しよう。
どんな感じのもの、というもやっとしたものでいい。
完成作品の続きを禁止する。
その上で、あの感じをもっと深くやってみたい、
とかを想像するのだ。
とすると、別の舞台でそれがあるとしたら、
と考えるとよいだろう。
産後の肥立ちは、創作の場合、
最低一週間、長ければ半年ぐらいか。
一本書いて、何年も書けなくなる人もいる。
人と作品次第だ。
何人もポコポコ生んだ昔の人みたいに、
ポコポコ生める人もいるだろう。
僕は風魔の撮影が終わったとき、
心底へこんだ。夢のような時間の終わりを知ったからだ。
三ヶ月以上喪失感は続いたと思う。
産後の肥立ち。
あなたが作品を作り続ける人生を選ぶなら、
作品の数だけやってくる。
それに慣れることも、
作家人生というものだ。
少し経てば、また神が降りてくる。
それに備えて、今は体作りや情報のインプットをするべきだ。
これを書いているのも、てんぐ探偵第三集が出来たから。
少し寝かせつつ、最後に整えてから世に出そうと思います。
2014年11月10日
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