ちょっとした小技を。
あなたが初心者や中級者で、
そのシーンがどうにもしまらないときに試して欲しい。
そのシーン尻に、主人公に一言言わせて終わる方法。
風魔の5話のラストを思いだそう。
小龍が兄弟の確執を克服し、「兄さん…」と一言いって終わる、
ということもあり得た筈だ。
この回は項羽小龍兄弟の回であり、
小龍が兄を受け入れるという帰結は、
なんら問題がないように思える。
しかし、本編では、
そのあとに小次郎の「本当に、人が死んでゆくんだ…」という、
実にリアルな名台詞が入っている。
(これは僕が書いた。プロデューサー陣には唐突とか言われたが、
僕は編集で見てくれと言った。結果は大成功だ)
これだ。
これが入ることでしまるのだ。
どうしまるかと言うと、視点が主人公に戻るのである。
主人公は、観客の最も注目するところだ。
観客は、主人公の目を通して世界を体験する。
主人公小次郎がこの台詞を言うときと、
観客がそう思うときはシンクロしている。
これまでバカドラマ、ネタドラマ、深夜特撮ドラマと思わせておいて、
あれ、このドラママジなんじゃね?
と思う瞬間だ。
忍びは命を賭けて闘うなんてマンガ的なことを言っていたのが、
リアルになる瞬間だ。
ドラマ「風魔の小次郎」は、ここが大きなターニングポイントだ。
それは項羽の死でもなく、白虎が倒れることでも、
小龍の闇が晴れることでもなく、
永遠の刹那が流れるところでもなく、
小次郎の一言なのだ。
この一点で、観客は小次郎と気持ちが同一になり、
小次郎の気持ちで世界を見ることになる。
つまり、感情移入である。
項羽小龍のドラマに涙腺を熱くしたあと、
それを我々同様に目撃した小次郎と、
我々が一体化するのだ。
だからその後の勝手な行動(墓をつくること)にも、
我々は小次郎の味方になる。
掟で禁じられている、という霧風が、疎ましく見えるのだ。
もし感情移入がなければ、
また小次郎が勝手なことを、というシーンで終わる筈だ。
霧風と小次郎の他人同士が話しているだけのシーンだ。
しかし、我々は小次郎の気持ちと同一化しているため、
彼の喪失感や痛みや理不尽に耐える様が、手に取るように分かる。
我々は忍びでもなく、勝手に墓を作ることはない。
なのに小次郎の気持ちが手に取るようにわかり、
自分の気持ちのような気がする。
これが感情移入だ。
(少しだけコツがあって、感情移入しやすいように、
我々の習慣に近いものを感情移入側、反発したいものを敵側にするといい。
アイスの棒の台詞は、兄貴に言いつけかねない掟重視の台詞と対比的なのだ)
この6話冒頭部の感情移入は、
5話の尻の一言でもたらされている。
このように、「あることを踏まえたあること」が、
物語というものだ。
この例では、主人公がショックを受けた。
その次に、それに基づいたリアクション(反応しての行動)をした。
このように、
シーン尻で台詞を言わせると、
次のシーンでは、それに基づく行動をさせやすいのである。
「ショックを受ける」のはマイナーで、
よりメジャーなのは、
「○○しよう」とシーン尻に言わせることだ。
勿論、ここまでストレートな例はまれで、
「○○しなくちゃ」「○○になるといいな」
ぐらいのニュアンスで言われることが多い。
また自作から具体例を。
てんぐ探偵第十話、名作「静かな朝」から。
P.50のタケシの台詞、「ぼくもいく」でシーンが終わっている。
引きこもりになったタケシが、飼い犬シロが病気になったため、
動物病院へいく、と、引きこもってた部屋から出るシーンだ。
部屋から出る、という具体行動はシーン内にない。
それよりも顔を上げた劇的瞬間で終わるべきと思ったからだ。
ここで主人公タケシが自分の意思を示す。
次のシーンは行動だ。
実際には省略されて舞台は動物病院にうつっている。
部屋から出る行動の結果から示している。
(※全体の主人公はシンイチだが、
それぞれの話ではゲスト、宿主が主人公だ)
その一連の行動、「部屋から出る」を、
シーン尻の台詞だけで印象的にしているのである。
勿論、ターニングポイントである。
行動の意思を示す訳だから、ここは自動的にターニングポイントになるのだ。
このような理論的なことを知らなくてもいいから、
イマイチしまらないときに、シーン尻に台詞を言わせよう。
「言い出しっぺが責任を取る」法則から、
主人公は行動をしなければならない。
だから、行動し、その結果話が進行する。
停滞を救うのは進行だ。覚えておくとよい。
例えば、無理矢理にでも主人公に、
「面白いことになってきたぞ。○○しなくちゃ」とシーン尻に言わせてみよう。
そこに到達するように、シーンを書き換えてみよう。
きっと話がまた転がり出すはずだ。
2014年11月10日
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