アメリカで産まれる物語は、変化を尊ぶ。
冒険は狩りであり、何かの克服(通過儀礼)である。
その変化を得て、次の場所へゆく。
日本で産まれる物語は、春夏秋冬だ。
出会い、燃え、死を迎え、再生し循環する。
だから重要なのは、変化というより同じ場所での循環。
あくまで仮説である。
ハリウッドの脚本論では、
変化(人物のアークという)が最も大事である。
変化する前、変化のきっかけ、変化することへの抵抗、
変化せざるを得ない理由、変化したい動機、
変化へのリアクションなど、
変化を中心にストーリーラインが形成される。
ところが、日本のどの伝統的物語論でも、
この変化を重要視したものはないような気がする。
(寡聞にして知らないため、あったら教えてください)
諸行無常の伝統下の物語のほうが多い気がする。
古い日本映画でもそのようなものが多い気がする。
歌舞伎の演目はどうだろう。さらに古い能などでは。
映画は、なんといってもハリウッドであり、
その脚本理論が主流だ。
色々読めば、主人公や登場人物の内的変化について、
ページを割いていないものはないだろう。
でもさ。
日本人はひょっとして、伝統的に変化に興味がないんじゃね?
だって四季があって循環する、諸行無常の国だもの。
そこでつくられる物語は、
変化よりも循環する物語なんじゃね?
という、大雑把な話。
若手、つまり訓練されていない状態のものたち、
のつくるお話を見ていて、
狩猟民族でもない我々日本人が、
そもそも変化や行動や焦点を、
ベースにしてない(根本的に好きということも含め)んじゃね?
と、いうことが気になってきた。
変化は物語に必要か?
なんて、ハリウッド理論から考えれば大胆すぎる発言も、
日本では成立しそうな気すらする。
だってのび太が成長し、変化する物語よりも、
いつもの日常がループすることを望むだろう?
その無意識はどこから来たのかなあ、
そしてアメリカではそれは悪だと思われるのはどうしてかなあ、
とぼーっと考えている。
あ、本ブログでは、
ハリウッド論ベースなので、
引き続きそういう話をしますが、
多くの生徒が身に付かないのは、
才能以前に、文化や民族の問題のような気すらしてきた。
2014年11月12日
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