2014年11月12日

物凄く大雑把な、変化に関する話

アメリカで産まれる物語は、変化を尊ぶ。
冒険は狩りであり、何かの克服(通過儀礼)である。
その変化を得て、次の場所へゆく。

日本で産まれる物語は、春夏秋冬だ。
出会い、燃え、死を迎え、再生し循環する。
だから重要なのは、変化というより同じ場所での循環。

あくまで仮説である。



ハリウッドの脚本論では、
変化(人物のアークという)が最も大事である。
変化する前、変化のきっかけ、変化することへの抵抗、
変化せざるを得ない理由、変化したい動機、
変化へのリアクションなど、
変化を中心にストーリーラインが形成される。

ところが、日本のどの伝統的物語論でも、
この変化を重要視したものはないような気がする。
(寡聞にして知らないため、あったら教えてください)
諸行無常の伝統下の物語のほうが多い気がする。

古い日本映画でもそのようなものが多い気がする。
歌舞伎の演目はどうだろう。さらに古い能などでは。

映画は、なんといってもハリウッドであり、
その脚本理論が主流だ。
色々読めば、主人公や登場人物の内的変化について、
ページを割いていないものはないだろう。

でもさ。
日本人はひょっとして、伝統的に変化に興味がないんじゃね?
だって四季があって循環する、諸行無常の国だもの。
そこでつくられる物語は、
変化よりも循環する物語なんじゃね?

という、大雑把な話。



若手、つまり訓練されていない状態のものたち、
のつくるお話を見ていて、
狩猟民族でもない我々日本人が、
そもそも変化や行動や焦点を、
ベースにしてない(根本的に好きということも含め)んじゃね?
と、いうことが気になってきた。

変化は物語に必要か?
なんて、ハリウッド理論から考えれば大胆すぎる発言も、
日本では成立しそうな気すらする。

だってのび太が成長し、変化する物語よりも、
いつもの日常がループすることを望むだろう?

その無意識はどこから来たのかなあ、
そしてアメリカではそれは悪だと思われるのはどうしてかなあ、
とぼーっと考えている。


あ、本ブログでは、
ハリウッド論ベースなので、
引き続きそういう話をしますが、
多くの生徒が身に付かないのは、
才能以前に、文化や民族の問題のような気すらしてきた。
posted by おおおかとしひこ at 19:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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