2014年11月13日

世界は永遠の変化をする

変化を描くとはどのようなことだろうか。


まずは主人公の変化がきちんと描けるかどうかだ。
それは最初の状態をきちんと描くこと、
冒険が終わったあとの状態をきちんと描くこと、
変化の瞬間を描くこと、
の最低みっつが描けていることが肝要である。

何故主人公は変化するのだろうか。
それは、主人公の行動がリスクを伴うものだからだ。

勿論命の危険などを映画は描くものだが、
それはあくまで外的危険のドンパチに過ぎない。

本当のリスクとは、自分の弱点や弱さを晒すリスクである。
誰だって自分の弱点は人に見せたくないし、
ましてやそれを克服するなんて難しいことはしたくない。

ところがいい映画は、
必ず主人公の一番弱いものを克服しなければ、
一番の目的を果たせない、
という「試練」の形で障害を設定してくるものだ。
これを克服するのは、
クライマックスか、
その前の第二ターニングポイント前であることが多い。
後者の場合、大抵その前はボトムポイント(どん底)だ。
最悪の状況に追い込まれ、
自分の弱味を克服しなければ、
この最悪の状況を逆転出来ない、
というところまで主人公を追い込むのだ。

主人公には動機がある。
その達成のために、自分の弱点と向き合わなければならないのだ。

「愛と青春の旅立ち」では、
それはミッドポイントで起こる。
今まで悪ぶっていた主人公が、
一番話したくない弱味を、上官に告白する場面だ。
どうしても卒業しなければいけない理由を、
初めて人前で言うことで、孤立していた主人公が、
変わりはじめる。みなで協力するようになるのだ。

成長である。

つまり、変化とは、なんらかの成長を描くということなのだ。
成長しなければ、現状維持のままでは、
死んでしまう(物理的な死でなくともよい)、
のような状況に追い込むことだ。
そうすれば、人は成長せざるを得なくなる。
その結果、外的目的が果たせる、
というクライマックスを迎えるのだ。
(外的目的の達成が、内的成長を象徴する)

だから、一般的に、
成長前(弱点のある状態)、
動機や目的、
それがあるために克服して変化しなければならない場面、
克服のドラマ、
成長後、
などをきちんと面白くつくらないと駄目だ、
ということがわかる。


また、成長や変化を遂げるのは、
主人公ばかりではない。
登場人物全員が変化することが、映画という物語だ。
それがいい方向への変化が、ハッピーエンドだ。
主人公や協力者の奮闘の結果、
世界はよりよく変化した、というのがハッピーエンドだ。
その結果、登場人物は以前より良く変化した、
というのがハッピーエンドである。

主人公の冒険、すなわち、
外的目的の達成(それには内的成長が必要だった)の結果、
すべてが良い方向へ変化するのが、ハッピーエンドだ。
主人公の冒険には、世界を変えるほどの価値があったのだ、
とするのがハッピーエンドだ。

逆に、誰も変化しない、世界が変化しないものは、
ハッピーエンドではない。
主人公だけが得をしても、世界を良くしたことにはならない。
(少なくとも、主人公の味方ぐらいは得をして、なんらかの変化をしたいところだ)


さて、変化とは、
永遠の変化が望ましい。
つまり、「ちょっと変わったけど、すぐまた元に戻りそう」なのは、
変化やハッピーエンドとは言わない。
この影響のおかげで、「二度とあんな不幸は起きない」社会になった、
ということが肝心である。

主人公は永遠の変化をした。成長した。
二度とこの冒険より以前の、弱い自分に戻ることはない。
主人公の味方や、関わった人も変化した。
主人公の冒険の結果に、いい影響を受けたのだ。
その影響が強いので、二度とそれを忘れることはない。
世界は永遠の変化をした。
(世界の範囲は主人公の身の回りから、冒険で関わった範囲程度)
二度と悲惨なことは起きないだろう。

これが真のハッピーエンドだ。
だからカタルシスがあるのだ。

すぐ元に戻るんだろうな、では、詰まらない。
「スラムドッグミリオネア」など、スラムがなくなることはない、
という厳しい現実を持つ世界でも、
主人公とヒロインだけはこの町を出て二度と帰らなかった、
という主人公の周囲の世界(それはヒロインたった一人でいい)を、
永遠に変化させた、というハッピーエンドが待っている。

ちなみに、ダニーボイルは、全く同じ落ちを、
「トレインスポッティング」でやっている。脱出落ちである。
「128時間」も脱出落ちだ。彼はそれが好きなのかも知れない。
そのなかでもとりわけ「スラムドッグミリオネア」が
ハッピーエンドのカタルシスがあるのは、
ラストの四択の答えの落ち(あえて伏せよう)と、
エンディングのインド映画風踊りのふたつが効いていると思う。


良くできたハリウッド映画ほど、
主人公はきちんと成長し、
登場人物全員が変化し、
世界は永遠の変化をする。
(そして悪役だけが成長せず敗北する)
真のハッピーエンドを描く。
それは主人公の内的成長に価値があることを暗示する。
(外的目的の達成というモチーフBで、
内的成長というテーマAを描いているのだ)

これが出来ない実力の人間が、
ビターエンドとかバッドエンドで悦に入りがちだ。

変化や成長を描こう。
その面白さが映画という物語の面白さの本質だ。


自分を主人公にしてはいけない理由がこれだ。
あなたが執筆中に凄く内的成長をすれば別だが。
あなたは、世界が永遠の変化を遂げるほどの、
主人公の成長を描かなければならない。
そうでなければ、物語のカタルシスなどないのだ。
(風魔の小次郎を思い出すと良い)
posted by おおおかとしひこ at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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