話が途中で書けなくなり、
挫折してしまう原因は、ひとつしかない。
今自分の書いているものが、面白くないと思ったからである。
今自分の書いているものが面白いと思っているのなら、
書けなくなることはない。
今の自分の筆力が足りなくて上手く書けない、
ということはありそうだが、
書くのをやめてしまうことはないだろう。
何としてでも書ききろうと思うはずだ。
ラストは三種類のうちどれがいいか、
などのポジショニング的な悩みについても同じだ。
自分の書いているものが面白いと思うから、
決定に躊躇しているだけだ。
本当に書けなくなるのは、
自分の書いているものが、なにひとつ面白くないと感じたときだ。
自分が自分のつまらなさに耐えられなくなるときだ。
突然飽きた、冷めたから、書けなくなるのだ。
そういうときは、
「そもそも何を面白いと思って書きはじめたのか」に、
戻ることが大事だ。
それがガワに関わるものや、点でしかないもの、
状態でしかないものならば、
それは最後まで書けたとしても、書く価値のない詰まらないものである。
それは、あなたは「内容ではない違うもの」を
面白いと判断してしまう、見る目のない人間だということを意味する。
見る目を鍛えるために、名作とそれ以上の糞作品を、
沢山見ることをすすめる。
あるものがあることに出会い、あることが起こりそうだから面白い、
などと思った筈だ。(あることには具体があるとする)
これは異物論でいうところの、冒頭の面白さである。
これが面白いとかつて思い、今でも面白いと判断するならば、
これは書く価値がある。
あることが起こりそうだ、
の具体は考えただろうか。
具体的な、その面白いこと、
右往左往ぶり、展開の面白さについて考えただろうか。
それを書きながら考えようというのは、甘えだ。
冒頭の面白さに接続し、それを凌駕する、
「次の」面白さについて考えていないから、
書くことがなくなり、
自分の書いているものが、面白くないと感じるのだ。
パワーダウンして当たり前である。
最初がピークになっていて、
次のピークが最初の神降臨的思いつきを、越えていないのだから。
あることがあることに出会い、あることが起こりそうな、面白さがある。
実際にそのことが進行する。
進行中、様々な面白さがやってくる。
それは最初の期待を裏切らず、それどころか上回る。
それは考えつかなかった、予想外だ、とみんなが思うような、
面白い展開が待っている。
そこまで、書く前に考えていないから、
途中で書けなくなってくるのだ。
あなたが飽きるのも当然だ。
最初の面白さ以上の面白さが用意されていないからだ。
あなたの飽きは、イコール観客の飽きである。
さて、冒頭が面白く、途中の展開が面白ければ書けるのか。
これまたそうではない。
終わりの面白さがないと、
畳めなかった風呂敷になるのである。
それらが、どのような落ちになる面白さなのかを、
あらかじめ決めておかないと、
必ず挫折する。
どうまとめていいか分からないからだ。
どう収拾をつけていいか分からないからだ。
下書きやデッサン時点で名作になりそうだったのに、
いざ色を乗せてフィニッシュにしたら詰まらなくなった絵と同じである。
冒頭の面白さ、展開の面白さは、終わりの面白さの為にあるのだ。
終わりの面白さが最も面白くないものは、
尻切れトンボという。
終わりの面白さが最も面白いものが、
どんどん面白くなる物語である。
さて。
あなたは冒頭の面白さだけ思いついて、書きはじめてやしないか。
途中の面白さだけ思いついて、書きはじめてやしないか。
冒頭、展開、終わり、このみっつの面白さが、
冒頭〈展開〈終わりとなっていない限り、
あなたは必ず挫折する。
途中で飽きて、冷めることだろう。
プロットを書け、という半ば強制的なきまりごとは、
こうなっているかどうか、事前にチェックするためにある。
次々に面白くなるかどうかは、
プロットに書いてあるものだ。
勿論、書いているうちにプロットより面白くなることはいいことだ。
しかし、プロットより面白くなくなることはない。
従って、プロットは、最後まで書くほどの面白い話かどうかの、
事前チェックなのである。
プロットに形式はない。決まった文字数もない。
大体ペラ一枚程度という見やすい形式かどうか、だけだ。
つまり、プロットとは、それがなぜ面白いのか?の根拠が、
ストーリー形式でざっくり書かれたものなのだ。
冒頭がまず面白い。
そして展開がそれ以上に面白い。
そして終わりがそれ以上に面白い。
そう書かれているかを、チェックするのである。
それはなぜ面白いのか?と必ず冷めた目線で尋ねてみるとよい。
このような面白さだ、と分析出来るとよい。
それがないプロットは、結局挫折するだろう。
書いているうちに飽きるからだ。
それはなぜ面白いのか?
常に自分が見失わないように、プロットの横にでも書いておこう。
冒頭はなぜ面白いのか?
展開はなぜそれ以上に面白いのか?
終わりはなぜそれ以上に面白いのか?
それが書けていたら、挫折することはない。
それは暗闇の中の灯台のように、挫折しかかったあなたに、
理想を示してくれるはずである。
結局、最後まで書くのは、あなた一人だ。
必ず不安になり、冷めてくる。
その時に、面白いのか?と思った根拠を確認することは大事だ。
そもそもその面白いと思ったことが、
今面白いと思えないなら、
それは面白くなかった話なのだ。
いや、やっぱこれ面白いわ、と思えるものだけを、
書き続ければよい。
もし途中で飽きたのなら、プロットに戻り、
やっぱこれ面白いわ、と思えるものに練り直せばよい。
なぜ面白いのか?を時に自作に問うことは、
客観性を保つことでもある。
理屈で感情を説明するからだ。
あるいは、なぜ面白いのか?を他の名作で分析することも、
とても大事だ。
そこで覚えた分析の言葉が、
自作に適用できるかどうか、使えるかどうか、
の武器となるからだ。
あなたの作品は孤立して存在するのではなく、
必ず他の面白い話と比較される。
なぜ面白いのか?と、全国の、世界中の観客が聞いてくる。
それを正確に表現するのは評論家の仕事だが、
評論家に渡す前に、あなた自身が評論できるべきだ。
もっともあなたの思ってない所を、他人が面白いということもよくある。
しかし、あなたが面白いと思うところを面白いと思われないのは、
あなたの感覚か、作品の出来か、偏った観客の、
いずれか(全部かも)がおかしいのかも知れない。
観客が1000人を越えたら、おおむね日本人全体の総意とずれていない。
(統計的推論)逆にそれ以下は、偏った観客の可能性がある。
それは、なぜ面白いのか?
問い続けよう。
問い続け、感覚を磨こう。
2014年11月16日
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