2014年11月16日

その主人公は、何故主人公なのか

答えを上手く言える映画は大抵名作だ。

能力が最も高いから、または、人物が魅力的だから、
が理由だとすると、きっと詰まらないストーリーだろう。


映画とは人間の物語である。

偉大なる人の活躍を描くものでもある。
偉大じゃない人(凡人)の活躍を描くものでもある
(そして活躍の結果その人は偉人になる)。

人間の物語とは、
つまり内的問題の克服である。
その人が内的問題を抱えていない物語は、
それは単なるロボットの運動の記録であり、
人間の物語ではない。
(例:うんこ映画ガッチャマン、キャシャーン)

内的問題の劇的克服というストーリーラインが主人公にないのなら、
それは映画ではない。

ものすごく簡単な問題かも知れない。(ピーマンが嫌いとか)
ものすごく複雑な問題かも知れない。(大抵は、アイデンティティーに関わる問題である)

いずれにせよ、主人公の資格は、
内的問題を抱えており、
その克服過程が感情移入に値する、面白い物語になっているかどうかである。

スペックの高低ではない。
正義や悪も関係ない。
模範的な人かダークヒーローかも関係ない。
今いけてる感じかどうかも関係ない。
共感しやすいかどうかも関係ない。
(感情移入の所で述べているとおり、共感は武器ではあるが必要条件ではない)

ただ、
内的問題の劇的克服の物語が面白く、
かつ、どの登場人物よりもテーマに近いことだ。
(むしろ主人公の内的問題の克服がテーマだったりする)

古い例になるが、「ゴースト/ニューヨークの幻」では、
主人公サムは、
恋人に「愛してる」と言えない内的問題を持っている。
恋人はそれが不満だ。愛してると言っても「同じ」としか答えないからだ。
それがラストシーンで愛してる、とその内的問題克服後のセリフで締めるのである。
ゴーストのテーマは永遠の愛だ。
その真の獲得をラストシーンで劇的に行うから、
あの映画は名作なのだ。


複数の登場人物が内的問題の克服をする場合もある。
憎み合っていた親子の和解などだ。
同時でなく、時間差があるときもある。
その場合でも、主人公の内的問題が、
最もテーマを表すようにすると、
その主人公は主人公の資格を得る。


主人公は、凄い人物かどうかはどちらでもいい。
誰からも好かれるかどうかもどちらでもいい。
その内的問題の克服が、
最もテーマになれば、それが主人公の資格だ。

あなたは何について書くのか。
どんな内的問題の劇的克服を描くのか。
その為にどんな外的自見の劇的解決を描くのか。

この構造の中心にいるのを、主人公と呼ぶだけである。


人間的に魅力があったり、
能力が高かったり(面白い弱点があったり)、
イケメンや美女だったりは、
あとづけで構わない。
そのほうが人気が出やすいという経験則に過ぎない。

テーマ、内的問題、外的問題の中心かどうかが、
主人公の資格である。
posted by おおおかとしひこ at 01:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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