「きっと、うまくいく」をようやく見れた。
傑作だ。
命のほとばしりを見せる、人間の愚かさと素晴らしさを見せる、
原始的な傑作である。
同時に、ムトゥで我々が触れたインドが先進国化している、
一抹の寂しさも感じる。
インドは原始的な人の熱情を保っていてほしい。勝手な願望だけど。
この映画は、小説の映画化であるという。
ここでも主人公の問題が顔を出す。
この映画の主人公は誰?
メガネの写真家?
天才の彼?
以前、日本映画「落下する夕方」を例に、
小説でありがちな主人公のねじれについて議論した。
小説は一人称形式だから、
「主人公わたし(A)が出会った、すごい人(B)の記録」
になりがちだという話。
自分をつい書いてしまうから、わたしAは、
たいした人物ではないことが多い。
だから派手で行動力があり能力の高いBに、
「何故か」気に入られることになり、
Bのいるめくるめく世界(スペシャルワールド)へ旅することになる、
というパターンだ。
これは三人称形式である映画とは、異なる主人公のあり方だ。
わたしの視点は映画にはない。
映画はカメラという三人称視点で、
AもBも等価にうつす。
したがって、Aは目立たない地味な人、Bは派手で動く人だ。
誰もがBに注目し、誰もがBの行方を気にする。
従ってBが主人公である。
Aは不要だ。削ってもよい。
あるいは、AをBと同じくらいちゃんと描いて、
バディものにするしかない。
それには、一人称形式でごまかされていた、
AとBに成立する奇妙な友情について、
感情移入できるレベルのエピソードを創作する必要がある。
「きっと、うまくいく」でも、まさにこのパターンだった。
Aに当たるのがメガネの写真家、
Bに当たるのが天才児、
という構成だ。律儀にも、ナレーションはAが読んでいる。
ただ、この映画が映画たりえたのは、
貧乏人の息子Cの存在だ。
彼がいることによって、二者関係が三者関係に、
薄まって誤魔化されるのである。
これがAB二人の話だったら持たない。
Aの内面の話がないと映画としてダメだ。
そして「落下する夕方」は持たないダメな映画だった。
似た構造に「スタンドバイミー」がある。
これは二人でも三人でもなく、四人だった。
主人公はAかBかで言えば、A(のちに小説家になる)だ。
何故なら、ラストに悪ガキどもに銃を向けて事態を収拾するのは、
Aだからだ。(行動)
また、彼の内的成長が主たるテーマだからだ。
(第一ターニングポイントは、雑貨屋の店長に「君は何になる?」と聞かれた場面だ。
ミッドポイントは焚き火の作り話であり、ことあるごとにお前は小説家になれ、
とBに言われる)
漫画「はじめの一歩」は、この構造を冒頭に持つ。
主人公一歩Aが、ボクサー鷹村Bに出会う場面だ。
そう言えば漫画「ジョジョの奇妙な冒険」の冒頭も、
主人公ジョナサンAが、金持ちのディオBと出会う場面だ。
少女漫画の伝統芸、素敵な転校生がやってきて恋に落ちる、もそうだ。
ごく普通のわたしAが、行動力もスペックもあるBに出会い、
なんだか息詰まっていた日常に風穴があき、
冒険の旅に出ることになる、
というのは、お話の冒頭部の典型のひとつだ。
今詰まらない俺たちの人生もこうなったらなあ、
という潜在願望と、
俺一人じゃなんともならない、
というリアリティーと、
誰かすごい人が協力してくれたら、
という甘え願望を、
すべて満たすパターンである。
ドラえもんもシンデレラも、同じ構造だ。
のび太やシンデレラがAであり、ドラえもんや魔女がBである。
つまり、この型は物語の導入部として、
よくあるパターンなのだ。
問題は、そのあとの展開や終わり方だ。
「落下する夕方」が失敗したのは、二人だからだ。
「きっと、うまくいく」では三人関係にしたこと、
「スタンドバイミー」では主人公はAにちゃんとしたこと、
が成功要因である。
「きっと、うまくいく」の主人公は誰か?
答えがない。三人だ、でも、AでもBでもない。
Aが単なる語り手に終わらなかったのは、
父親を説得し、写真家になる決意をきちんと伝える名場面があったことだ。
これが彼の通過儀礼となり、彼は内的成長を遂げたのである。
(世間の誰に誤解されてもいいから、父さんだけにはわかってほしい、
というのはいい台詞だ)
一方Bは内的成長は遂げていない。だから最も目立つのに、
主人公の資格がない。学長の娘を口説くのは最初だけで、
それは普段通りだっただけで、そこから通過儀礼の行動や成長をしたわけではない。
このABのバランスが、絶妙にどちらも主人公ではない感じに寄与している。
Cに関してもだ。放尿→取り引き→自殺→就職面接の一連の流れで、
彼の通過儀礼と内的成長が描かれている。
だから、絶妙なバランスで、小説的かつ映画的なのだ。
かなり珍しいタイプの主人公だと言える。
意図的かどうかは分からない。
原作小説を読まないとなんともだ。
群像劇、といってしまえばそれまでなのだが、
誰もが内的成長を遂げて行く気持ちよさが、
長い尺を十二分に使った「きっと、うまくいく」の凄さだ。
見ている途中何度も拍手したし、
インターミッションの幕切れは上手い!と唸った。
洗練度合いで「きっと、うまくいく」、
原始的な魅力の「ムトゥ踊るマハラジャ」、
双方の融合した「スラムドッグ・ミリオネア」、
ぼくのインド映画のベスト3だ。順位は甲乙つけがたい。
それぞれに、どのように主人公をとらえるかの構造が異なるので、
そこに注意して見るのもとてもよいだろう。
全部見たら9時間だし、その濃さにしばらく映画はいらなくなる(笑)
2014年11月16日
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