2014年11月16日

主人公の話、つづき

「きっと、うまくいく」をようやく見れた。
傑作だ。
命のほとばしりを見せる、人間の愚かさと素晴らしさを見せる、
原始的な傑作である。
同時に、ムトゥで我々が触れたインドが先進国化している、
一抹の寂しさも感じる。
インドは原始的な人の熱情を保っていてほしい。勝手な願望だけど。

この映画は、小説の映画化であるという。
ここでも主人公の問題が顔を出す。
この映画の主人公は誰?
メガネの写真家?
天才の彼?


以前、日本映画「落下する夕方」を例に、
小説でありがちな主人公のねじれについて議論した。

小説は一人称形式だから、
「主人公わたし(A)が出会った、すごい人(B)の記録」
になりがちだという話。

自分をつい書いてしまうから、わたしAは、
たいした人物ではないことが多い。
だから派手で行動力があり能力の高いBに、
「何故か」気に入られることになり、
Bのいるめくるめく世界(スペシャルワールド)へ旅することになる、
というパターンだ。

これは三人称形式である映画とは、異なる主人公のあり方だ。

わたしの視点は映画にはない。
映画はカメラという三人称視点で、
AもBも等価にうつす。
したがって、Aは目立たない地味な人、Bは派手で動く人だ。
誰もがBに注目し、誰もがBの行方を気にする。
従ってBが主人公である。

Aは不要だ。削ってもよい。
あるいは、AをBと同じくらいちゃんと描いて、
バディものにするしかない。
それには、一人称形式でごまかされていた、
AとBに成立する奇妙な友情について、
感情移入できるレベルのエピソードを創作する必要がある。


「きっと、うまくいく」でも、まさにこのパターンだった。
Aに当たるのがメガネの写真家、
Bに当たるのが天才児、
という構成だ。律儀にも、ナレーションはAが読んでいる。

ただ、この映画が映画たりえたのは、
貧乏人の息子Cの存在だ。
彼がいることによって、二者関係が三者関係に、
薄まって誤魔化されるのである。

これがAB二人の話だったら持たない。
Aの内面の話がないと映画としてダメだ。
そして「落下する夕方」は持たないダメな映画だった。

似た構造に「スタンドバイミー」がある。
これは二人でも三人でもなく、四人だった。
主人公はAかBかで言えば、A(のちに小説家になる)だ。
何故なら、ラストに悪ガキどもに銃を向けて事態を収拾するのは、
Aだからだ。(行動)
また、彼の内的成長が主たるテーマだからだ。
(第一ターニングポイントは、雑貨屋の店長に「君は何になる?」と聞かれた場面だ。
ミッドポイントは焚き火の作り話であり、ことあるごとにお前は小説家になれ、
とBに言われる)

漫画「はじめの一歩」は、この構造を冒頭に持つ。
主人公一歩Aが、ボクサー鷹村Bに出会う場面だ。
そう言えば漫画「ジョジョの奇妙な冒険」の冒頭も、
主人公ジョナサンAが、金持ちのディオBと出会う場面だ。
少女漫画の伝統芸、素敵な転校生がやってきて恋に落ちる、もそうだ。

ごく普通のわたしAが、行動力もスペックもあるBに出会い、
なんだか息詰まっていた日常に風穴があき、
冒険の旅に出ることになる、
というのは、お話の冒頭部の典型のひとつだ。

今詰まらない俺たちの人生もこうなったらなあ、
という潜在願望と、
俺一人じゃなんともならない、
というリアリティーと、
誰かすごい人が協力してくれたら、
という甘え願望を、
すべて満たすパターンである。

ドラえもんもシンデレラも、同じ構造だ。
のび太やシンデレラがAであり、ドラえもんや魔女がBである。

つまり、この型は物語の導入部として、
よくあるパターンなのだ。
問題は、そのあとの展開や終わり方だ。


「落下する夕方」が失敗したのは、二人だからだ。
「きっと、うまくいく」では三人関係にしたこと、
「スタンドバイミー」では主人公はAにちゃんとしたこと、
が成功要因である。


「きっと、うまくいく」の主人公は誰か?
答えがない。三人だ、でも、AでもBでもない。

Aが単なる語り手に終わらなかったのは、
父親を説得し、写真家になる決意をきちんと伝える名場面があったことだ。
これが彼の通過儀礼となり、彼は内的成長を遂げたのである。
(世間の誰に誤解されてもいいから、父さんだけにはわかってほしい、
というのはいい台詞だ)
一方Bは内的成長は遂げていない。だから最も目立つのに、
主人公の資格がない。学長の娘を口説くのは最初だけで、
それは普段通りだっただけで、そこから通過儀礼の行動や成長をしたわけではない。
このABのバランスが、絶妙にどちらも主人公ではない感じに寄与している。
Cに関してもだ。放尿→取り引き→自殺→就職面接の一連の流れで、
彼の通過儀礼と内的成長が描かれている。

だから、絶妙なバランスで、小説的かつ映画的なのだ。
かなり珍しいタイプの主人公だと言える。
意図的かどうかは分からない。
原作小説を読まないとなんともだ。


群像劇、といってしまえばそれまでなのだが、
誰もが内的成長を遂げて行く気持ちよさが、
長い尺を十二分に使った「きっと、うまくいく」の凄さだ。
見ている途中何度も拍手したし、
インターミッションの幕切れは上手い!と唸った。

洗練度合いで「きっと、うまくいく」、
原始的な魅力の「ムトゥ踊るマハラジャ」、
双方の融合した「スラムドッグ・ミリオネア」、
ぼくのインド映画のベスト3だ。順位は甲乙つけがたい。
それぞれに、どのように主人公をとらえるかの構造が異なるので、
そこに注意して見るのもとてもよいだろう。
全部見たら9時間だし、その濃さにしばらく映画はいらなくなる(笑)
posted by おおおかとしひこ at 14:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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