2014年11月18日

「ドラマとはバトルである」その2

コンフリクトをバトルと意訳することで、
お話の構造はわかりやすくなる。


お話とは、問題の解決である。
あるところに問題が生じ、それを解決する(落ちがつく)までを描く。

「問題」には色々ある。

バトルが問題の場合がある。

戦争もの、冒険もの、競争もの(会社、スポーツ)、人間関係もの、など、
人間個人(または組織や集団)の生存競争そのものが問題となるのは、
原始的だ。
命そのものが問題のとき、社会生命や立場が問題のときなどさまざまだ。
(死にはしないが、おしまいだああということはある)

犯罪もの、刑事物も、正義の遂行という生存競争である。
また、恋愛もバトルのうちに入れよう。
目的は相手を殺すことではなく、愛し合うことだ。
(悩殺、という言葉もあるけど)

いずれにせよ、ある人間とある人間との間にバトルがある。


問題が、バトルでない場合もある。こちらのほうが多いかも知れない。

しかし問題の解決のためには、
「バトルを制さなければならない」となってくるのが映画だ。

問題そのものや解決過程では、
かならずそれに関わる人間が出てくるから、
「そのバトルに勝たないと解決できない」となるのである。


問題が大自然の冒険(例:「128時間」)や病原菌の根絶など、
人間を相手にしない場合もある。
この場合、主に描かれるのは主人公の内面、内的バトルである。
彼の中の葛藤が主な舞台だ。
大自然や病原菌は、その具体的な舞台装置に過ぎない。

小説では言葉による内面描写が容易なため、題材になりやすい。
ところが内面を描くことが難しい三人称形式の映画では、
ただ悩んでる顔を写しても内面の豊かな言葉は伝わってこない。

「128時間」では、ビデオに向かって喋る、という現代的な手法で、
内面の言葉を外に出す、二度と使えない例外的パターンを使った。
かつてはこれは「手紙」という手法だった。
文通という要素で内面を外に出す往復書簡ものは、文学の定番だ。
(変形に、ビデオレターやテープに捜査や航海の記録を吹き込むなどもある)

実際、そのままでは持たない話になるので、
競合相手や敵が出てくることで、バトル的な要素で話の構造をつくることがある。
(「剣岳」では競争相手が出てくることで話が面白くなる。
この映画が詰まらないのは、主人公の内的バトルが表現出来ていないからだ)




いずれにせよ、結局は、「人」と「人」の「バトル」になるのである。

我々観客が感情移入する側を主人公(プロタゴニスト)、
相手をアンタゴニスト(敵対者)という。
敵対者は、敵、敵ではないがライバル(競争相手)、あるいは愛を獲得すべき人、
などのすべてを含むことばである。


人と人のいるところ、必ずバトルがあるのだ。

対立や衝突(陽に出すアメリカ的)の形を取ることもあるし、
因縁や確執(陰に隠す日本的)の形を取ることもある。

特に日本という国は、表だって対立や衝突をすることを好まず、
なるべく陰でなにかを遂行する文化だ。
(アメリカからすれば分かりにくいだろう。忍びの国なのだ)

実際には、今まで影にあった因縁や確執が、
これ以上隠せない表だった対立構造となり、
世間の前で対決せざるを得ない状況になるのが、日本映画的である。
(耐えて耐えて忍んで忍んでついに爆発する、というパターン)


一方アメリカ的な物語は、最初から対立を軸とする。
必ずアンタゴニストがいて、その距離関係で物語の主軸が決まる。

アメリカ文化の中では、対立や衝突は必ずしも悪とは思われていないようだ。
むしろ自分の主張を述べる機会のような、ポジティブなものとしてとらえている。
相手の主張も理解し、双方の納得する第三の道を得る
(止揚。矛盾するものがその対立軸でない、新しい軸を産み出すこと。
弁証法でいうところのアウフヘーベン。
これが定着していない日本では、交渉は綱引きでしかない。
アウフヘーベンは、綱引きの軸以外の解決を創造すること)
機会であると考えている節がある。

勿論、交渉が成立しなければ、殲滅か撤退だ。
このへんが狩猟民族の距離感覚だ。
(農耕民族は、人間関係が流動的ではなく固定的だから、
揉め事を起こすことは、それだけで追放や村八分の対象だ)


アメリカ的な物語では、
必ず主人公と敵対者がいる。
それ以外に物語などない。

近年、それ以外のパターンを別の文化から輸入する場合もあり、
その原則は全てに適用できないが、おおむね適用だと思っておくとよい。

たとえば明確な対立軸がない物語でも、
ハリウッドリメイクを施すときは、明確な対立軸をつくるようにする。

「オールユーニードイズキル」では、
日本版が「侵略宇宙人の尖兵ギタイとの対決」ではなく、
「ヒロインとの恋愛(と対決)」を軸にしたのに対して、
ハリウッド版では、より「ギタイとの対決(とループ世界からの脱出)」
を主軸にしている。
対立軸を明確に、分かりやすくするのだ。

また、姿を見せない敵などの場合、
バトルは身内で行われるパターンもある。
日本版「オールユーニードイズキル」はそちらだ。

しかし身内のもめ事に見えて、スケールは小さくみえがちである。
「スターシップトルーパーズ」は、宇宙人との戦争を対立軸に据えるのかと思いきや、
実際は卒業などの学園ものの対立軸がメインだった、内輪揉めの作品だ。

宇宙戦艦ヤマトの実写映画版は、
ガミラスとの対立軸を描く予算がなさそうだから、
館内での人間ドラマ主体の、内輪揉め作品になることが期待された。
しかし、どっちつかずの駄作であった。

逆に「スタンドバイミー」では四人の内的バトルがメインではあるが、
きちんと年上の悪ガキたちをアンタゴニスト(先に死体を見つける競争相手、かつ悪)
にすえ、対立軸を描くことで主人公の立場を明確化している。



対立すなわちバトルでは、
「己を相手に示す」ということがとても重要だ。
ディベートでも、恋愛でもだ。

従って、アメリカ的な物語では、そのような場面が必ずある。
温度感の高いアピールである。
逆にラブコメでは、いけてないアピールに悩んだり、
プレッシャーに負けそうな若者を描く。
どちらにせよ、アメリカ人にとっては、アピールこそが人生の一大事だ。
スピーチ、プレゼン、面接、口説き、秘密を明かす、
などが重要な場面になるのはそのためだ。

言葉は、そのための武器なのである。

実はこの構造が最もわかりやすいのは、法廷ものだ。
対立軸が明確で、言葉によるアピールだからだ。
だからアメリカでは人気の型なのだ。
何が正義かを、ディベートする、バトルするのである。
(そしてSF大作などに比べれば大きな予算がかからない)


一方、和を貴しとなす我が国では、
「表面上は和をよそおい、水面下で工作する」という、
いわゆる「腹芸」の文化である。

したがって、「表だった対立や衝突」よりも、
ちょっとした嫌みや引っ掛かりや皮肉などの、確執や因縁という、
短期的よりは長期的なものになりがちだ。
それが絡まった様が葛藤である、ということすらありえる。
従って日本的物語では、「水面下のバトル」がしばらく進行する。

日本のバトルは、「知られないこと」が重要だ。
会議でのネゴシエーションは、会議室ではなくお座敷などの場外で行う。
あの子を好きなことは、他のやつに知られたくない。
あの人自分が嫌われてる自覚もないみたいよ、
などなどだ。

日本的物語には、回想場面がとても多い。
それは因縁や確執は複雑すぎて、ある程度の説明が必要だからだ。

説明や回想は、映画ではなるべく少ない方がいい。
現在起こっている焦点を追い続ける娯楽だからだ。
それを一旦休止して過去を挟むのは、あまりよろしくない。
過去の因縁を最初から描くと事件が起こるまでかかりすぎる。
で、結局過去回想が多くなるのである。



間接的な因縁だろうが確執だろうが、
直接的な対立だろうが衝突だろうが、
人と人のバトルであることには変わりはない。

ドラマとはすなわちバトルのことである。
事件解決の過程であらわれるバトルの過程であり、
最終的には直接対決である。
その主軸に関わる、もろもろのなにかである。


こう考えると、自分の物語に何が足りていないかわかってくるだろう。
posted by おおおかとしひこ at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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