2014年11月24日

小説と映画の違い:描写

僕は小説家としてはまだ素人なので、
話半分に聞いてほしい。

小説の描写のほうが、脚本よりも遥かに細かい。
世界を構築する訓練になる。

逆に、脚本は使わないものは書かない。
使う要素だけを扱うため、
頭の中で要素を動かす訓練になる。


例えば情景描写。
ためしに、あなたの部屋を描写してくれたまえ。


僕の部屋が小説に登場するなら、
たとえばこう書かれるだろう。

畳六畳と洋間のフローリング四畳半が繋がった部屋だ。
畳に拘ったのは、布団で寝たいからである。
とはいえ毎日押し入れに出し入れすることもなく、
しかし万年床は流石によくないので、
とりあえず布団をたたんでは展開するのが日課のようになっている。
ここ数日寒くなったのでついに毛布を投入した。
掛け布団、羽毛布団、毛布と、重い布団の季節の始まりだ。
本が布団を囲むように散乱している。
脚本の入門本やら趣味の格闘技本ばかりだ。
読もうと思っていたデリンジャーの小説は埃を被っている。
枕の右側には、てんぐ探偵関係の資料が散乱している。
透明ファイルにA4手書きで書くのが癖だから、
そのファイルが何部も積まれている。
あとは雑然とした、特筆することもない男の一人暮らしだ。
テレビは古いし、鉢植えは枯らしたままだし、洗濯物は干されっぱなしだ。


一方脚本だとこうだろう。

○男の部屋

   雑然とした部屋。

これだけだ。

小説の描写は、目の前に光景が広がるように書く。
たとえば写真を撮ったとして、その要素について並べて行く。
あるいはその部屋にはじめて入った人の体験として、
その部屋を理解するように書く。
だから畳や布団や本などについて詳しく書くのだ。
最近寒かったことなど、写真で理解出来ない、
見たままでも分からないこと、話さないと分からないことも書いていい。
(寒くなったので、の下りなどは、見た目では分からないことだ)
それが主で、周りの枯れた鉢植えなどをアクセントに使っている。
取り立てて面白くない部屋ですいません。

ところが、脚本の描写は一行だ。
畳の部屋だろうが布団だろうが、あとに使わないなら書かない。
極端に言えば、あとに使わないなら、
フローリングとベッドになっても文句はない。
本人のリアリティーを重視する、ということを監督が判断しないなら、
そうなってもしょうがない。
少ない予算を、部屋の再現に使うのは合理的でないと判断する。

実際に部屋をつくるのは、美術部である。
畳を敷くのならどれぐらいへたった畳か、
布団はどれぐらい使い込んだものか。
(畳も布団もリースであるから、新品のほうが安い。
安い映画のセットがなんだか嘘臭いのは、
新品のリースで埋めるからだ。
使い込んだものはそれなりに値段がする。
美術小道具保管スペースの値段込みだ。
どんな柄や色や形があるとも限らない。
買い取ってへたらせるという選択肢もある。
美術部は様々な条件の中から、
男の性格を表現するような畳や布団を組み合わせる)

それらは監督と決めて行く。
実際の物件をロケに使う場合なら、
先行ロケハンする制作部の感覚で部屋の間取りは決められてしまう。

あるいは、天井はどうだろうか。
小説には書かれていないが、映画では決めなければならない。
雰囲気的には木の少したわんだイメージだが、
実際には壁と同じ白の壁紙がひいてある。
電灯は70年代のアンティークデザインの傘で、
ステンドグラス風に透ける暖かみがあるものを使っている。
小説にもシナリオにも書かれていないが、
天井や電灯のない屋はない。実際の現場には用意される。
指定しない限りは美術部がデザイン的に用意したものだ。
部屋の雰囲気に合ってるようなものだろうが、
リアルと全く違っても文句は言えない。
僕の部屋のものを持ってきたとしても、全体の印象の中で浮くこともあるから、
美術部の用意したもののほうが物語を邪魔しないということもある。

しかし、伏線に使われるのなら電灯の傘は書かれるべきだ。
例えばその後地震があって傘が落ち、
たまたま寝ていた僕の顔にすっぽりハマるコントがあるとしよう。

○男の部屋

   赤い電灯の傘が印象的な、雑然とした部屋。

などのようにだ。
小説でもあの描写の中に電灯の傘を入れることもあるが、
実際は地震の場面まで書かれないかも知れない。
見た目の印象の強い、直前に書くかも知れない。
あるいは、落ちてきたあとにようやく描写するかも知れない。


脚本は、極限まで描写を削る。
それは現場を自由にするためだ。
僕の部屋に近づけることが必ずしも正解とは限らない。
正解は、物語を魅力的に見せることだ。
部屋の描写は、脚本にはだから邪魔だ。
大抵の脚本では、部屋を描写することは殆どない。
実際の制作過程で具体が作られて行く。

一方小説では絵がないので、
そこに踏み込んだような臨場感で、
(話そのものには関係なかったとしても)
「絵を浮かばせる」ように書くのである。


人物描写においてもそうだ。

小説では例えば女が出てきたら、
彼女がどれだけ美しいかを書くだろう。
細面で黒髪の、黒い瞳が印象的な女性、
などのような外面的な特徴を書いて絵を浮かばせることもあるし、
おっとりとした性格、などのように内面を書くこともある。

が、脚本でこれを書くことはない。

何故なら、それは既にいる俳優が演じるからだ。
その俳優の外見で決まるからだ。
彼女が魅力的な茶髪なら、黒髪にすることはないだろう。
監督がそう指示しない限り。

だから脚本に外見は書かれない。
佐代子(33)などのように、名前と年齢しか書かれない。
女医の佐代子(33)などのように書かれたら、
見た目でそのように分かるように、
衣装部は白衣や聴診器や胸のIDカードを用意し始める。
(一方小説では、その登場場面が合コンで、私服を着ていたとしても、
描写によって彼女が医者であることを説明可能だ)

性格の描写も脚本ではしない。
彼女の性格を表すなら、
あることに対するリアクションなどである。
今すぐ行かなきゃ!と言われても「ゆっくり行けば着くわよ」と言って見せたりなどでだ。
重要な決断タイムでも、彼女の決め方はおっとりしているはずだ。
(一方小説では、このような一工夫なく彼女の性格を描写できる。
本当にはそれは描写したことにならないと思うが、
それで出来てしまったと作者が思うことが、 僕は小説のほうが、
「楽できる」と考える所以だ)


小説の描写は強力だ。
文章力があればあるほど、
目の前に光景を浮かばせることができる。
文による絵画だ。
文による世界の構築だ。

だが脚本ではそれをしない。
するのは、ストーリーに必要なものを書くときだけだ。
しかも簡潔に書く。
それはそれがどんなものであるか(ディテール)は、
脚本家ではなく監督が決めるからである。
何が必要なのかのリストに過ぎないのだ。

そして映画では見た目で表現出来ないことは、
あることへのリアクションなどの、
動きや芝居や反応して出てくる台詞で表現していく。


シナリオを書くと小説家は鍛えられる、とか、
シナリオより小説のほうが楽だ、と僕が言う根拠は、
小説の地の文の描写力の強力さだ。

それに頼らずに話を書くのが、
脚本を書くことだからだ。


つまり小説に比べて、
脚本はストーリーそのものを書く。
ディテールはあとまわしに。

素人が脚本を読むと、ディテールがうまく想像できなくて苦しむ。
それは当たり前で、わざと書いてないのである。
役者に自由を与えるために。
現場に自由を与えるために。
だから、絶対必要なもののリストだけしか書いてない。
ストーリーライン、ターニングポイント、焦点、
動機、行動、リアクション、台詞。
なるべく無駄を削ぎ落とした、簡潔な形で。

脚本から見れば、小説は無駄が多い。
小説から見れば、脚本は描写不足だ。
posted by おおおかとしひこ at 11:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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