人間の記憶のあり方。
例えば家を出て会社や学校にいくとき、
それが日常であるほど、
途中を覚えていない。
家から出て、
右にいくか左にいくかという道があるとして、
右に向かった最初しか覚えてなくて、
会社や学校に着いた所は覚えていても、
途中どの道を通ったか、
とくに変わったことがなかったときに何があったか、
あまり覚えていないものだ。
自動化された行動なら尚更だ。
1時間かかるとして、最初と最後の5分以外の記憶は殆ど捨てられるのだ。
勿論途中でそれを壊す違和感や事件があれば記憶に残る。
痴漢がつかまったとか、消防車とすれ違ったとか、
好きな子と会ったとかだ。
勿論、意識がないわけではない。
その時は生きているし、判断もできる。
ただ記憶にはあまり残らない。
人間の時系列の記憶は、これに近いと思う。
最初○○だった。
途中色々あって、
最後△△だった、
という、途中を記憶から削除してしまう傾向にある。
ためしに大分前に見た映画をきちんと説明してくれ。
ためしにしばらく会っていない同期が結婚したとして、
その同期の話をしてくれ。
最初と最後は上手く説明できても、
途中色々あって、と間を抜く筈だ。
で途中は?と尋ねて、ようやく間のディテールを思い出すのである。
あんなことあった、こんなことあった、のように。
しかしそれらは時系列どおりに出てくるのではなく、
ランダムに、印象の強い順に出てくる。
それは全体や結論に寄与する、
重要なポイント順ではない。
あくまで自分の印象の順だ。
ロッキーの最初はダメボクサーで、
ラストはエイドリアンに抱きつくところだ。
途中を聞かれて、
生卵を飲んだり走ったり肉を叩いたりするシーンや、
アイススケートのデートシーンは思い出せても、
自分のインタビューをテレビで見て自己嫌悪に陥るミッドポイントや、
エイドリアンが寝ているところに潜り込み明日の話をする
第二ターニングポイントを思い出せる人は殆どいないだろう。
時系列の記憶は、このような構造があると僕は考えている。
だから中盤は難しいのだ。
上手い中盤ほど無意識で見てしまい、記憶に残らないのである。
残るのは、違和感があったとき、
すなわち詰まらなかった中盤だ。
あるいはイレギュラーが起きたとき、
どんでん返しなどの記憶ぐらいだ。
勿論印象の強い中盤は記憶に残る。
しかしビジュアル的印象の傾向が強く、
ストーリー的に上手なシーンは印象には残らない。
(上にあげたロッキーのミッドポイントと第二ターニングポイント)
これらから考えられる、脚本家にとっての知見。
中盤を書くのは難しい。
手本を思い出すことが出来ないからだ。
意識的研究でしか勉強することは出来ないだろう。
同様に、いかに上手く中盤を書いても誉められない。
記憶に残るのはまずかったものだけだ。
全体の記憶(印象)は最初と最後でしか決まらない。
どんなに中盤が夢中になるほど上手くても。
あるいは下手でも。
逆に言えば第一印象と、ラストの印象が作品を決めてしまう。
中盤の印象は、ビジュアル的記憶が優先される傾向がある。
などだ。
家からの出発の記憶、会社や学校への到着の記憶だけが、あとに残る。
「途中は色々ある」だけだ。
2014年11月24日
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