2014年11月25日

自分以外がいなければいいのに、という思い

を、敵に利用しよう。


敵というのは、コンフリクトの相手だ。
コンフリクトを僕はバトルと意訳する。

バトルの相手は、他人である。
主人公と全く別の性格、
別の目的、別の立場、別の事情を持っている。
すなわち、全く別の原理の生き物だ。

この別の原理、というところを上手く描けないと、
バトルは面白くならない。
主人公サイドだけでなく、
敵サイドの事情が垣間見える方が面白い。
(理想は双方に感情移入することだ)

そこで簡単な方法がある。
自分の嫌いな属性を、敵に持たせるのである。

全ての人を好きな人はいない。
あいつさえ居なければ世界は良くなるのに、とか、
あいつだけは認めない、とか、
生理的に無理、とか、
憎しみや嫌悪や理想でないことなどを、
敵に持たせるのだ。

敵といって、
ダースベイダーとか、
犯罪者集団とか、
悪徳政治家とか、
ヤクザとかチンピラとか、
近所の嫌な奥さんのような、
よくある敵を持ってくるのは詰まらない。

あなたが心底嫌う人の感じを持ってくると、
俄然面白くなる。
勿論その人そのものにすると、
面白さの客観性を失うので、
一部を溶け込ませるくらいが丁度いい。

誰しも自分以外みんな味方だといいのに、
と夢想している。
自分に反対する人なんていなくなればいいのに、
と思っている。
しかしそれはいなくならないのが現実で、
こちらよりあちらのほうが権力がある。
(だからなくならない)
しかも新しい人に出会えば出会うほど、
そういう人は増えていく。
現実でそれを上手く乗り越えられないからこそ、
人は物語で一瞬の夢を見るのだ。
敵は排除され、理想が実現するのである。


さて。
ここで登場人物が四人いる。
主人公、あなた、敵、あなたの嫌いな人。
この四人は、別々の人格を持つこと。
主人公とあなたが同一でもいけないし、
敵と嫌いな人が同一でもいけない。
どこか一部分混ざるのはよくあることだが、
完全に同一にしないことが、
客観的に物語を書くコツだ。
あなたはその嫌いな人を現実には倒していないのだから、
その敵を倒すのに現実味がないのだ。
客観性のない、リアリティーのない物語を書いておしまいだろう。

あくまでも敵は敵として創作し、
そこに嫌いな人の属性を一部盛り込むぐらいにとどめよう。



実写「風魔の小次郎」における、
敵、夜叉一族は、感情移入に至るレベルのすぐれた敵の描きかただ。
原作では飛鳥武蔵のみ感情移入可能だったものを、
殆ど全キャラ10人と夜叉姫にも感情移入できるようになっている。
これは主人公サイドの風魔一族においても同じだ。

このように感情移入が拮抗すると、
何も主人公側が勝たなくても、敵方が勝ってもいいのではないか、
という疑問が出てきてしまう。
そもそも夜叉のほうが強かったのだし。

このときに、夜叉にこの技を使っている。
夜叉姫が12話で嘆いた「みんな自分のことしか考えていない」だ。
風魔の絆的な生き方と対照をなして、
ここがこの物語のテーマともなっている、
無駄のない構造だ。
この嫌いな人の属性(それは俺だけでなく、殆どの人が嫌う属性だ、
という客観性を持たれてつくられている)が夜叉にあることによって、
夜叉の崩壊、敗北に納得が行き、
風魔の勝利に納得が行く。
理性的納得と、心からの納得双方である。

もしも夜叉が絆を重視し、風魔が自分のことしか考えていないなら、
夜叉が主人公の物語が書かれたはずだ。
武蔵や壬生や陽炎や雷電が助け合い、竜魔と霧風は恨みあい、
劉鵬は協力せず、麗羅は暴走して一人で死ぬ。
(暇な方、こういう二次創作はおもしろいですよ。三次創作かも?)


あなたが認めたくない、嫌いな、許せないものを、
敵が持っているといい。
それはどこかで見たようなものでなく、
新しいものであると、更に面白くなる。

自作の例で言えば「てんぐ探偵」がそうだ。
「敵は外になく、自分の心の中にいる。
妬みとか上から目線という形で」
という、新しい悪(敵)のパターンについて書いているのである。
posted by おおおかとしひこ at 13:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック