を、敵に利用しよう。
敵というのは、コンフリクトの相手だ。
コンフリクトを僕はバトルと意訳する。
バトルの相手は、他人である。
主人公と全く別の性格、
別の目的、別の立場、別の事情を持っている。
すなわち、全く別の原理の生き物だ。
この別の原理、というところを上手く描けないと、
バトルは面白くならない。
主人公サイドだけでなく、
敵サイドの事情が垣間見える方が面白い。
(理想は双方に感情移入することだ)
そこで簡単な方法がある。
自分の嫌いな属性を、敵に持たせるのである。
全ての人を好きな人はいない。
あいつさえ居なければ世界は良くなるのに、とか、
あいつだけは認めない、とか、
生理的に無理、とか、
憎しみや嫌悪や理想でないことなどを、
敵に持たせるのだ。
敵といって、
ダースベイダーとか、
犯罪者集団とか、
悪徳政治家とか、
ヤクザとかチンピラとか、
近所の嫌な奥さんのような、
よくある敵を持ってくるのは詰まらない。
あなたが心底嫌う人の感じを持ってくると、
俄然面白くなる。
勿論その人そのものにすると、
面白さの客観性を失うので、
一部を溶け込ませるくらいが丁度いい。
誰しも自分以外みんな味方だといいのに、
と夢想している。
自分に反対する人なんていなくなればいいのに、
と思っている。
しかしそれはいなくならないのが現実で、
こちらよりあちらのほうが権力がある。
(だからなくならない)
しかも新しい人に出会えば出会うほど、
そういう人は増えていく。
現実でそれを上手く乗り越えられないからこそ、
人は物語で一瞬の夢を見るのだ。
敵は排除され、理想が実現するのである。
さて。
ここで登場人物が四人いる。
主人公、あなた、敵、あなたの嫌いな人。
この四人は、別々の人格を持つこと。
主人公とあなたが同一でもいけないし、
敵と嫌いな人が同一でもいけない。
どこか一部分混ざるのはよくあることだが、
完全に同一にしないことが、
客観的に物語を書くコツだ。
あなたはその嫌いな人を現実には倒していないのだから、
その敵を倒すのに現実味がないのだ。
客観性のない、リアリティーのない物語を書いておしまいだろう。
あくまでも敵は敵として創作し、
そこに嫌いな人の属性を一部盛り込むぐらいにとどめよう。
実写「風魔の小次郎」における、
敵、夜叉一族は、感情移入に至るレベルのすぐれた敵の描きかただ。
原作では飛鳥武蔵のみ感情移入可能だったものを、
殆ど全キャラ10人と夜叉姫にも感情移入できるようになっている。
これは主人公サイドの風魔一族においても同じだ。
このように感情移入が拮抗すると、
何も主人公側が勝たなくても、敵方が勝ってもいいのではないか、
という疑問が出てきてしまう。
そもそも夜叉のほうが強かったのだし。
このときに、夜叉にこの技を使っている。
夜叉姫が12話で嘆いた「みんな自分のことしか考えていない」だ。
風魔の絆的な生き方と対照をなして、
ここがこの物語のテーマともなっている、
無駄のない構造だ。
この嫌いな人の属性(それは俺だけでなく、殆どの人が嫌う属性だ、
という客観性を持たれてつくられている)が夜叉にあることによって、
夜叉の崩壊、敗北に納得が行き、
風魔の勝利に納得が行く。
理性的納得と、心からの納得双方である。
もしも夜叉が絆を重視し、風魔が自分のことしか考えていないなら、
夜叉が主人公の物語が書かれたはずだ。
武蔵や壬生や陽炎や雷電が助け合い、竜魔と霧風は恨みあい、
劉鵬は協力せず、麗羅は暴走して一人で死ぬ。
(暇な方、こういう二次創作はおもしろいですよ。三次創作かも?)
あなたが認めたくない、嫌いな、許せないものを、
敵が持っているといい。
それはどこかで見たようなものでなく、
新しいものであると、更に面白くなる。
自作の例で言えば「てんぐ探偵」がそうだ。
「敵は外になく、自分の心の中にいる。
妬みとか上から目線という形で」
という、新しい悪(敵)のパターンについて書いているのである。
2014年11月25日
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