2014年11月28日

最も人を動かすのは、感情移入

最も、のシリーズ続けます。

コンセプト(これはタイトルも含まれる)に興味を持ち、
ちょっと見てみようと見はじめた人が、
夢中になるには、感情移入だ。


感情移入のメカニズムやどうやるかについては、
過去さんざん書いたのでバックナンバーを探ってくれたまえ。
(感情移入で記事検索すれば沢山出てくるだろう)

最初の方でまずは主人公は、
日常世界でない異常事態に放り込まれること。
(異物との出会い)
そこからの脱出に興味を持つことが、
感情移入の最初だ。
(その際に共感性を高くしたり、好感度を上げておくと、
スムーズに行くというコツもあるが、必ずしも必要ではない。
あざといぐらいなら、やらない方がましだ。
またわざと共感出来ない方向からはじめる上級者パターンもあるだろう)

そこからどうにかして話を進めるうちに、
いつの間にか主人公と一体になり、
主人公の気持ちに深く同調し、
主人公の行動に一喜一憂するのが感情移入だ。
いつの間にかそれは行われる。
人を好きになるのと同じで、
ここから感情移入、ここから以前は感情移入前、という線引きはない。
徐々にである。

感情移入が上手く行くと、主人公の感情と観客の感情が同じになる。

下手な物語では、最後まで主人公に感情移入出来ず、
他のキャラクターを好きになったりする。
また、感情移入は自分に似ていない人にも起こる。
性別も年齢も、立場も事情も異なる他人にだ。
むしろそうでなければ感情移入とは言わない。
映画とは第三者、つまり三人称の他人に感情移入させる芸術である。


感動や感激、深い余韻などの、
心の奥底に刻まれる、
優れた文学ならではのことは、この感情移入からもたらされる。

それは文芸大作に限らない。
感情移入さえ上手くいけば、
文芸大作に匹敵する深い感動を得られる。
(例えば実写「風魔の小次郎」、演劇「多分、大丈夫」)

それが脚本の力だ。

素人は、感情移入は役者の力によると思い込んでいる。
見たままを信じてしまうからだ。

しかしこれは、100%脚本の力である。
役者はこれを具体で表現するに過ぎない。
脚本で50のものを、役者で80にすることは出来る。
しかし、100には出来ない。
100に出来るのは脚本だけだ。
勿論、脚本で100のものを、だめな役者が30にすることもある。
(これは監督、役者、プロデューサーの責任である)

脚本で100のものを、優れた役者が120にすることもある。
しかし、100に満たない脚本をあとで100にすることは決して出来ない。
100にすることは、脚本にしか出来ない。

何故か。

感情移入はその場だけでない、
ストーリーに起こるからだ。

事件や行動や事情や動機を見て知り、
肩入れしたり失望したりすることで起こるからだ。
ストーリーの展開に身を任せたくなるほどの、
面白いストーリーのときに起こるからだ。
(面白いストーリーの条件は、見ているときに、見ていることを忘れること)


感情移入は静止状態には起こらない。
動的状況に起こる。

静止状態に起こるのは、好きという感情に過ぎない。
感情移入は、好きという感情と、重なることもあるが、
必ずしも同じではないし、むしろ好き嫌い軸以外の感情だ。
(しかし結果的に好きになることはある。
そして大抵の名作は、好きになる。だから混同される)

同情や共感や、外面と違う内面の発見などの、
人が人を好きになるプロセスと感情移入は似ているが、
同じではないと僕は考えている。



コンセプトでこちらの世界に触れてもらい、
感情移入で引きずり込み、虜にするとよいだろう。
人が感情を動かすのは、
ストーリー上で感情移入した人物が心を動かすときである。

仕上げは、テーマである。
次回は、「最も人の余韻に残るのはテーマ」で議論しよう。
posted by おおおかとしひこ at 13:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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