最も、のシリーズ続けます。
コンセプト(これはタイトルも含まれる)に興味を持ち、
ちょっと見てみようと見はじめた人が、
夢中になるには、感情移入だ。
感情移入のメカニズムやどうやるかについては、
過去さんざん書いたのでバックナンバーを探ってくれたまえ。
(感情移入で記事検索すれば沢山出てくるだろう)
最初の方でまずは主人公は、
日常世界でない異常事態に放り込まれること。
(異物との出会い)
そこからの脱出に興味を持つことが、
感情移入の最初だ。
(その際に共感性を高くしたり、好感度を上げておくと、
スムーズに行くというコツもあるが、必ずしも必要ではない。
あざといぐらいなら、やらない方がましだ。
またわざと共感出来ない方向からはじめる上級者パターンもあるだろう)
そこからどうにかして話を進めるうちに、
いつの間にか主人公と一体になり、
主人公の気持ちに深く同調し、
主人公の行動に一喜一憂するのが感情移入だ。
いつの間にかそれは行われる。
人を好きになるのと同じで、
ここから感情移入、ここから以前は感情移入前、という線引きはない。
徐々にである。
感情移入が上手く行くと、主人公の感情と観客の感情が同じになる。
下手な物語では、最後まで主人公に感情移入出来ず、
他のキャラクターを好きになったりする。
また、感情移入は自分に似ていない人にも起こる。
性別も年齢も、立場も事情も異なる他人にだ。
むしろそうでなければ感情移入とは言わない。
映画とは第三者、つまり三人称の他人に感情移入させる芸術である。
感動や感激、深い余韻などの、
心の奥底に刻まれる、
優れた文学ならではのことは、この感情移入からもたらされる。
それは文芸大作に限らない。
感情移入さえ上手くいけば、
文芸大作に匹敵する深い感動を得られる。
(例えば実写「風魔の小次郎」、演劇「多分、大丈夫」)
それが脚本の力だ。
素人は、感情移入は役者の力によると思い込んでいる。
見たままを信じてしまうからだ。
しかしこれは、100%脚本の力である。
役者はこれを具体で表現するに過ぎない。
脚本で50のものを、役者で80にすることは出来る。
しかし、100には出来ない。
100に出来るのは脚本だけだ。
勿論、脚本で100のものを、だめな役者が30にすることもある。
(これは監督、役者、プロデューサーの責任である)
脚本で100のものを、優れた役者が120にすることもある。
しかし、100に満たない脚本をあとで100にすることは決して出来ない。
100にすることは、脚本にしか出来ない。
何故か。
感情移入はその場だけでない、
ストーリーに起こるからだ。
事件や行動や事情や動機を見て知り、
肩入れしたり失望したりすることで起こるからだ。
ストーリーの展開に身を任せたくなるほどの、
面白いストーリーのときに起こるからだ。
(面白いストーリーの条件は、見ているときに、見ていることを忘れること)
感情移入は静止状態には起こらない。
動的状況に起こる。
静止状態に起こるのは、好きという感情に過ぎない。
感情移入は、好きという感情と、重なることもあるが、
必ずしも同じではないし、むしろ好き嫌い軸以外の感情だ。
(しかし結果的に好きになることはある。
そして大抵の名作は、好きになる。だから混同される)
同情や共感や、外面と違う内面の発見などの、
人が人を好きになるプロセスと感情移入は似ているが、
同じではないと僕は考えている。
コンセプトでこちらの世界に触れてもらい、
感情移入で引きずり込み、虜にするとよいだろう。
人が感情を動かすのは、
ストーリー上で感情移入した人物が心を動かすときである。
仕上げは、テーマである。
次回は、「最も人の余韻に残るのはテーマ」で議論しよう。
2014年11月28日
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