コンセプトで目を引き、感情移入で夢中にしても、
その話に何の意味があったのか、がないと、人は納得をしない。
たとえば、
「朝遅刻しそうになったのだが、必死で走って間に合った」
という話を、いかに面白いコンセプトで描き
(たとえばスゴイ合成をするとか、マラソンに巻き込まれるとか)、
いかに深く感情移入が行われ、展開に夢中になっても、
ただラストに間に合った、だけでは、何の意味もない。
人は話に意味を見いだしたいのだ。
たとえばこの話では、
「間に合わないように起きよう」という教訓を得たとか、
「必死でやればなんとかなる」の実際を見た、とかだ。
話全体が与える教訓や結論などのことを、テーマという。
テーマが教訓になるタイプの話は、道徳話である。
最近の道徳教育はどうなっているか不明だが、
昔の道徳教育は、
教訓を持つ話をみんなで読むか、
逆に教えを守らなかったが為にヒドイ目に遭う、という話で、
これはいけないと皆が学習するものだった。
テーマ(道徳的なこと)が明確にあり、
それを中心に物語が組み立てられていたのだ。
それが「老人を大切にしよう」とか、「人には親切に」などの、
聞き飽きたものなら教科書的な退屈話だが、
「悪は滅び、正義は勝つ」とか「大恋愛は報われる」とか、
「友情の絆は深い」などになれば、
途端に教科書ではない、映画的な物語になる。
ここまで大上段に構えなくとも、
「男女間の友情は必ず愛へと変わる」などの、
必ずしも正しいとは限らない結論でもよい。
心地よい結論でなくとも構わない。
「この世の中を粛清するには悪人を滅亡させるしかない」などの、
悪いテーマでも構わない。これはデスノートのテーマだ。
「薬は安易に手を出しやすく、すぐ破滅する」でもいい。
これはレクイエムフォードリームのテーマだ。
(テーマは心地いいほうがいいことが、この映画を見るとわかる)
テーマは誰かが演説するものではない。
それは物語ではなく、演説や論文や説教だ。
話の問題や構造が大抵それを暗示し、
主人公の最後の選択が大抵暗示する。
テーマは、具体的な物語の奥に隠れている。
観客は見終えたことで、そこから読み取る。
だからテーマは言葉で書かれるとき、
一意の表現を持たない。
ロッキーのテーマは、
「男のプライドを証明する」でもいいし、
「俺は何者かになりたい」でもいいし、
「愛する女の名を叫ぶ一人の男であることを皆の前で示す」でもいいし、
「アイデンティティー」でもいい。
物語を見終えた人に、大体似たようなことを言葉で表現できていればOKだ。
この性質が、テーマというものをややこしくしている。
見終えた人にしか出来ないもので、
答えあわせのような一意の正解がないくせに、
大体似たようなことという、
幽霊のようなものだからだ。
しかも、
見る前の人に「この映画のテーマは○○なんだよ」と言っても通じないし、
ヒキが強いわけでもない。
見ている途中の人に、○○なんだよと言っても、
まだ全体が見終わってない人に言っても分からないし、
結論を先に言ってくれるなと思うだろう。
つまり、
見る前の人は、コンセプトが一番気になり、
見ている途中の人は、感情移入が一番大事なもので、
見終えたあとの人は、テーマが残るのだ。
いつ、何が最も大事かは、
実は「見る」という行為との時間軸で決まるのだ。
(歴史家や、我々研究したい人にとっては、
見終えたあとにも全ての要素が大事だが)
見る前の人には、テーマも感情移入もヒキがない。
見ている途中の人には、コンセプトのシーン以外なら意味がないし、
テーマは考えながら見るものだ。
見終えた人には、コンセプトも感情移入も記憶の彼方にしかなく、
テーマで全てが上書きされた状態なのである。
テーマが最も大事だ、という教科書的な主張は、
「ただし見終えた人にとっては」という注釈つきなのだ。
では、我々書くものにとっては、
何が最も大事なのだろう。
テーマから考えることはある。
今この時代に言いたいこと、この時代に言うべきことを設定し、
その結論になるように物語の構造を組む。
次に考えるのは感情移入に足るストーリーラインやキャラクターだ。
大まかなプロットが出来た時点で、
この映画の目立つ部分になる、コンセプチャルなシーンをひねり出すことになるだろう。
コンセプトが一番に出来ることもある。
ワンシーンやワンビジュアルだから、
スプレッド的に発展させながら、
主人公像や事件の全容を縦(時間軸)に考えはじめるだろう。
何が起こってそのシーンになり、ラストどうなるのか。
テーマは何か。
何のための物語か。
そして、最後に感情移入を考えることになるはずだ。
感情移入から出来ることもある。
おそらく主人公が自分に近い話か、
具体的なキャラクターがいて、
その冒険を描くパターンだ。(原作つきもこれだ)
おそらく次はテーマだろう。
それは何のための物語か、何を言うためのストーリーラインかを考える筈だ。
テーマが決まってからストーリーラインを変更することもあるだろう。
多くの実写化が失敗するのは、
ここがヌルイからだと僕は思う。
最後にコンセプチャルなシーンをつけ足す筈だ。
この映画はどのような映画か、に答えるようなものを。
(ここで原作つきだと、原作の派手なシーンを考えなく持ってきてしまい、
テーマや感情移入に沿ったコンセプトにならないことが多い)
実写「風魔の小次郎」は、
感情移入→仮のテーマ(新しい忍び)→
コンセプト(夜叉対風魔のCGとかアクションのイメージ、
試合の裏で死合い)
→感情移入を深く掘る→テーマを深く掘る
→感情移入を更にまとめあげる
の順でつくったような気がする。
何度か往復しながらより深めていった感じだ。
てんぐ探偵は、
テーマ(心の闇のネタ)→感情移入→コンセプトの順でつくっている。
(話によってはコンセプトから考えるときもある)
そして、書く人にとっても、
書く前なのか、書いてる途中なのか、書き終えたあとなのかで、
重要な度合いは異なる。
書く前はテーマ、
書いてる途中は感情移入、
書き終えたあとはコンセプトが、
重要度が高いように思われる。
(作り方によっても異なるだろうけど)
観客、プロデューサー、監督、製作委員会、そして脚本家、
それぞれにとっての、時間軸で、
重要なことが異なってくる。
殆どの未見者にはコンセプトが大事になってくるだろう。
だから企画書はペラ一枚になりがちで、
製作委員会方式はそれで進み、
テーマや感情移入の責任を取らず、
駄作が連発されてゆく。
見終えた人にも、書く前の我々にも、
テーマが最も大事なことは変わりないのだが。
2014年11月28日
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