2014年11月29日

何故映画は詰まらなくなるのか

物凄く簡単に言うと、烏合の衆でつくるから。


理想は、ものすごい才能がいて、
そのワンマンでつくるのがよい。
一時期の黒澤明はそうだっただろう。
芸術というものはそういうものだ。
映画の原型である芝居は、そうやって作られてきた。

または、ものすごい才能と、ものすごい才能が出会うことだ。
鳥山明と鳥嶋編集長などの例のように、
掛け合いの才能は欠点を互いに補うパワーを発揮する。

どちらのパターンも、その才能が駄目だったら大コケである。

映画というのは、ものすごい才能を、
多くの人が買い支える大博打であった筈だ。
駄目なら次の才能に賭ける、ほとんど損で時々爆発、という。

ところが、多くの人が損したくないがため、
談合するようになったのだ。
その人たちが損しないための法則を見いだし、
その法則でつくりはじめた。
その範囲内でやれる、枠内の才能が、それをつくった。
しかしそれでも成功しないから、
法則は増えていく。
損をしないための法則は見いだせても、
大成功する法則は見いだせない。
何故なら大成功を一度もしていないからだ。

僕は日経エンタテイメントのヒットの法則みたいなやつが大嫌いだ。
あれは過去の成功事例であり、それが妥当な分析かどうかについての評価がなく、
未来の成功を予言していないからだ。



烏合の衆が集まり、会議を行うことの無能ぶりは、
小学校の学級会を思い出すと良い。
毎週あったかどうか思い出せないが、
あの場で何か画期的な決定、時代を変える話し合いが行われたことがあるだろうか?
しょうがないから投票で決めただろう?
それが画期的なものをつくったか?
誰もが諸手をあげるものではなく、
これでいいのかなあと渋々の結論しかなかった筈だ。
あるいは、
誰かが犯人にされ、それをつるし上げることしかなかった筈だ。

烏合の衆の会議からは、画期的なものは出てこない。
会議は、尖ったものを潰してならすためにあるからだ。


物語の面白さは、たった一人か、
ごくわずかの成員のチームからしか生まれてこない。

ためしに、小学校の学級会の人数で物語をつくってみるといい。
画期的な物語など出来るわけがない。
リレー小説をしたことがあれば、秩序であるべき物語はすぐに混沌になる、
ということを知っているだろう。


今邦画ビジネスは、
金だけもった投資家にプロデューサーが話をつけてきて大枠をつくり、
その枠内で出来る監督や脚本家を探し、
学級会の人数で物語をつくっている。
(人数が多いのは、一人当たりの出す額が小さいからだ)
いくら監督や脚本家が叫んでも、
数の暴力に圧倒されて潰される。
潰されたあとで、やりますか?降りますか?という選択肢しか、
彼らには残されない。


烏合の衆で面白い物語は出来ない。
学級会の結果が画期的にならないように。

時代を切り開くのは、
烏合の衆ではなく少数の天才の爆走だ。


そしてここが肝心なのだが、
ものすごい才能は、最初からものすごい才能ではない。
才能の光を少しだけ放っていたものが、
どんどん磨かれて大きくなっていくものだ。
そうやって才能は育ち、どこかで枯れる。
そしてそこには運も絡むから、益々読めない。
烏合の衆は、読めないことに極力投資しない。


僕は一人で勝負出来る小説を書くことにした。
上手くいくとしたら、僕に才能があり、どんどん磨かれるときだけだ。
そうなっているかどうか、判断は皆さんにお任せする。
posted by おおおかとしひこ at 13:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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