敵のことを、時々シャドウという言い方をする。
これは、主人公の影の部分を背負わせる、という意味だ。
人間、誰しも光の部分と影の部分を持っている。
僕も、あなたも、おじいちゃんも、子供も、好きな人も、嫌いな人も。
主人公という人間を描くとき、
その光の部分と影の部分を考えない訳にはいかない。
長所と短所というペアで考えてもいいし、
いい人的な部分と悪い人的な部分と考えてもいいし、
他人に見せる顔と本音と考えてもいい。
感情移入を果たすためには、
100%いい人じゃないほうがいい。
毒を抜かれた教科書のような人物には意味がない。
しかし、主人公はテーマを体現してもらわなくてはならない。
そのテーマが「いいこと」である場合、
悪いことの成分を抑え目にする必要がある。
それを、悪役にやらせるのである。
だから悪役をシャドウ(影)という。
悪役は単独の人格ではあるが、
実は主人公の片割れなのである。
正確に言うと、作者の人格の、光を主人公が、影を悪役が演じるのだ。
悪役に魅力があり、主人公に魅力がないのは、
きっとその作者が悪い人間だからだ。
或いは、悪が無秩序で、主人公が秩序なら、
秩序を保つ方が難しい(部屋は散らかす方が掃除より簡単)。
それを描く作者の力量がないだけだ。
よくある主人公とシャドウの対比は、
他人を大切にするvsエゴイズム、
努力vs天才(故の驕り)
反体制vs体制
人間vs自然
秩序vs無秩序
などだろうか。
とくに西洋では、対立こそが物語の軸であるから、
主人公とシャドウの組み合わせについては、
西洋のほうがバリエーション豊かに研究されているかも知れない。
もし悪役が単独で魅力的なら、
あなたの主人公はきっと魅力がない。
(多くのジャンプ漫画はこうだが、ここでは踏み込まない)
また、悪役はシャドウに徹するべきである。
人間というのは、一見悪い人にもいいところがあったりする。
悪い人は、別のところではいい人だと知られている場合すらある。
善悪は相対的に決まることもある。
だが、シャドウにそのようなことをやらせると、
主人公とシャドウとの軸がぶれる。
あくまでシャドウは本体の影であるべきだ。
本体とのコンフリクトの軸でのみ語られるべきだ。
日本人の書く物語では、この徹底が甘い。
にっくき敵、というのはなかなか描けず、
あいつにも良いところがある、というのが伝統的だ。
それは、対立軸で物事をとらえる西洋文化でない、
日本の和を貴しとなす独自文化かも知れない。
シャドウをきちんと書こう。
それは自分の中の闇や悪と向き合うことだ。
対比的に、自分の中の光や正義と向き合うことだ。
両方を上手く書けないと、二項対立は描けなくなる。
悪役に、同情の余地なしにしてみよう。
悪役がちょっと良いところを見せるのなら、それは主人公にやらせてみよう。
悪役をちゃんとシャドウとして書けるのなら、
あなたは自分の心の中を自覚的に見ている証拠だろう。
「てんぐ探偵」は、シャドウを主人公の中に置く、
新しい構造の物語だと思っている。
上手くいっているかどうかは、皆さんの判断に委ねたい。
2014年11月30日
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