2014年12月01日

ほんとにそれが起こっている

と、思えるかどうかだと思うんだよ。


リュミエール兄弟の初の映画、「列車の到着」
(映画というより、ホームに列車が到着するのをただ写した、
ワンカットなが回しで、写真が動く凄さのデモンストレーション)
では、観客は本当に列車が走ってきたと思って、
逃げ出したという。
サイレントで、白黒なのにだ。

舞台演劇で、悪役が本当に悪いやつだと思い込んで、
観客が殴りにいくという場面が、
映画「ピアノ・レッスン」の中にあった。
演劇に、本当に起こっていること、と感じた人は、
大昔にいたはずだ。

70年代ぐらいまで、時代劇の悪役はプライベートでも石を投げられたし、
超人バロム1の敵がドルゲだから、ドイツ人ドルゲ氏の息子がいじめられた事件も起こった。
テレビや映像世界が、半ば本当だと思われていた証拠だ。

映画に音がつき、色がつき、3Dになったりした。
フィルムから70ミリや4Kになろうとしている。
それもこれも、本当に起こっていることと錯覚させるためだ。

メソッド演技が、大袈裟な演技を駆逐した。
それもこれも、本当に起こっていることと錯覚させるためだ。

最近、計画的なカット割りよりも、
役者に自由に演技させ、なが回ししたあと編集で刻む、
ドキュメント的な演出が流行った。(まだ流行ってる?)
それもこれも、これは本当に起こっていることと錯覚させるためだ。

ステディカメラでその人を追い続けるアクションも、
流行った。
それもこれも、ノー編集で、本当に起こっていることと錯覚させるためだ。


つまり、映画とは、本当に起こっていることと錯覚させることなのだ。
逆に、つくりものとばれないようにすることとの闘いでもあるのだ。

小説や論文はそれと一線を引いているような気がする。
本当のリアルから、何かをフィルターで抽出したあとの、
エッセンス部分のようなものが、求められている気がする。


あなたの書く脚本では、
それが本当に起こっていると思って書いているだろうか。
リアルだったり、臨場感があるだろうか。

それが本当に起こっていると錯覚することが、
映画を見ることではないかと思う。

それが嘘っぽかったり、マンガチックな抽象っぽかったりすると、
途端にそれが駄目になるんじゃないか。
(漫画原作は、リアリティーとの闘いになる)

本当に起こっているように見せるには、
それが起こってもおかしくない世界を用意することも肝心だ。
リアル世界と近いかどうかも関係ない。

それがそこで本当に起こっているように書くことが、
映画を書くことではないかと思う。
それを、ストーリー、ト書きと台詞と柱だけで表現するのが、
脚本の役割だ。

どんなに役者が上手くても、それが本当に起こっているような脚本でない限り、
本当に起こっているようには演じられないだろう。

つまりは、あなたが、
本当に起こっているように書かなければいけない。
posted by おおおかとしひこ at 01:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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