と、思えるかどうかだと思うんだよ。
リュミエール兄弟の初の映画、「列車の到着」
(映画というより、ホームに列車が到着するのをただ写した、
ワンカットなが回しで、写真が動く凄さのデモンストレーション)
では、観客は本当に列車が走ってきたと思って、
逃げ出したという。
サイレントで、白黒なのにだ。
舞台演劇で、悪役が本当に悪いやつだと思い込んで、
観客が殴りにいくという場面が、
映画「ピアノ・レッスン」の中にあった。
演劇に、本当に起こっていること、と感じた人は、
大昔にいたはずだ。
70年代ぐらいまで、時代劇の悪役はプライベートでも石を投げられたし、
超人バロム1の敵がドルゲだから、ドイツ人ドルゲ氏の息子がいじめられた事件も起こった。
テレビや映像世界が、半ば本当だと思われていた証拠だ。
映画に音がつき、色がつき、3Dになったりした。
フィルムから70ミリや4Kになろうとしている。
それもこれも、本当に起こっていることと錯覚させるためだ。
メソッド演技が、大袈裟な演技を駆逐した。
それもこれも、本当に起こっていることと錯覚させるためだ。
最近、計画的なカット割りよりも、
役者に自由に演技させ、なが回ししたあと編集で刻む、
ドキュメント的な演出が流行った。(まだ流行ってる?)
それもこれも、これは本当に起こっていることと錯覚させるためだ。
ステディカメラでその人を追い続けるアクションも、
流行った。
それもこれも、ノー編集で、本当に起こっていることと錯覚させるためだ。
つまり、映画とは、本当に起こっていることと錯覚させることなのだ。
逆に、つくりものとばれないようにすることとの闘いでもあるのだ。
小説や論文はそれと一線を引いているような気がする。
本当のリアルから、何かをフィルターで抽出したあとの、
エッセンス部分のようなものが、求められている気がする。
あなたの書く脚本では、
それが本当に起こっていると思って書いているだろうか。
リアルだったり、臨場感があるだろうか。
それが本当に起こっていると錯覚することが、
映画を見ることではないかと思う。
それが嘘っぽかったり、マンガチックな抽象っぽかったりすると、
途端にそれが駄目になるんじゃないか。
(漫画原作は、リアリティーとの闘いになる)
本当に起こっているように見せるには、
それが起こってもおかしくない世界を用意することも肝心だ。
リアル世界と近いかどうかも関係ない。
それがそこで本当に起こっているように書くことが、
映画を書くことではないかと思う。
それを、ストーリー、ト書きと台詞と柱だけで表現するのが、
脚本の役割だ。
どんなに役者が上手くても、それが本当に起こっているような脚本でない限り、
本当に起こっているようには演じられないだろう。
つまりは、あなたが、
本当に起こっているように書かなければいけない。
2014年12月01日
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