クォータースターコンテストに参加して良かったのは、
唯一この台詞を聞けたことだ。
どの劇団のなんという作品か思い出せないが、
こういう場面だった。
特撮番組の劇団という設定のコメディだった。
その中のベテランが、若手に言うのである。
おう、お前、ちょっと歩いてみい。
はい。(と歩く)
全然あかーん!芝居になってない!もう一回!
はい。(と歩く)
お前全然芝居わかってないやんけ!なんであかんか分かるか?
いえ。
目的がないからやー!ただ歩くんでも、ただ歩いてる奴なんかおらん!
歩く目的を考えなあかんやろー!
字句は大分違うが、大体こんな内容だった。
そうか、とはたと膝を打った。
芝居には目的がいるのだ。
ただ歩く、ただ言う、ただ座る、そんな芝居はないのだ。
何のためにそれをするのかがないと、芝居ではないのだ。
そしてその目的は、本来脚本に書いてあるものなのだ。
勿論、明示的に書いてあるわけではない。
暗示的だ。
暗示するというより、話を読めば分かるように書いてあるはずなのだ。
分からないのは、
役者が文脈を読みきる読解力がないか、
そもそも脚本段階で考えられていないかの、
どちらかなのだ。
助監督の仕事の中に、エキストラの配置と芝居づけがある。
例えば商店街でメイン人物が会話するとき、
後ろの通行人の動きや配置を決めるのは助監督がやる。
下手な助監督は、位置を決めて歩く方向を決めるだけだ。
一応形にはなるが、人というオブジェクトが動いているだけの、
模様に過ぎない感じになってしまう。
それは何故か?
目的がないからや。
上手な助監督は、位置と導線だけでなく、目的を与える。
はいあなた、安売りに間に合わないから急いで下さい。
はいあなた、まだ夕食の献立がきまっていないので色々見ながら組み立てて、
はいあなた、隣の人とどっちのスーパーが安いか話しながら、
はいあなた、肉屋と魚屋でまよった挙げ句、魚屋を目指してください、
はいあなた、電話で息子になに食べたいと聞きながら、
はいあなた、メモを出そうと思って探しながら、
などなどだ。
勿論、見た目に区別のつかない芝居をつける意味はない
(今晩のメニューをビーフシチューにしようかなと思うことと、
彼女の誕生日はいつだっけと考える芝居は、区別がつかない)
から、見た目で違う芝居をするような、目的を与えるのである。
これを優秀な助監督なら、10分やそこらで形にする。
コツは全員に細かくつけるのではなく、目立つ人をつくることだ。
背景のエキストラにすら、目的がある。
(例えばインザヒーローの、出演が決まったー!と主題歌が流れて、
唐沢が商店街を走るとき、そのエキストラには、目的のある芝居がつけられていない。
だから単なる模様に見え、街の息吹が伝わってこない)
そのレイヤーより前にいる筈の、主要人物や脇役に目的がないのは、
脚本としておかしいのだ。
2014年12月03日
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