2014年12月04日

正しい予告編2

前項での議論が「正しい」かどうか、
現状の予告のやり方では分からないかも知れない。
今、映画とは何かが、ずれ始めている気がするからだ。

映画会社は、映画を何だと思っているのだろうか。
僕は映画を、「最高のおはなしの娯楽」だと思っている。
しかし昨今映画会社は映画を「最高のキャストの集結」だと思ってやしないか。


映画が最高のキャストの集結であるならば、
そいつらの飲み会でもスクリーンに出してればいい。
そいつらがコスプレする集会を2時間写してればいい。
いいロケーションにでも連れていき、
そいつらの旅番組でも流しておけばいい。
最高の芸能人の集会を、だらだらと流しておけばいいじゃねえか。

ジャニーズ映画なんてそんなもんだろ?
ジャニーズは歌や踊りについては素直に認めるけど、
こと芝居においては僕は認めない。
あんな下手な芝居を押しつけられるなら、僕は降りる。

映画が最高のキャストの集結であるならば、
試しにそんな集会ビデオをつくってみてはどうだい?
オフショットこみでさ。
普段見れない貴重な姿や表情も見れるぜ?
そんな見る動物園を、試しにつくってみなよ。
それはジャニーズ映画を見る人を動員しまくると思うよ。

人気芸能人は、歌舞伎の時代から看板と呼ばれる。
人は看板を見に来るのだろうか。
看板の奥の中身を見に来るのだろうか。
僕は両方だと思いたい。
看板で誘引し、中身を見せるものだと思っている。

昨今の看板は、人気芸能人、CG、人気原作、
凄いロケ、主題歌を手掛けたアーティスト、
などが流行りだ。
それらはあくまでパーツにすぎず、
「それが一体となって何をするか」が中身だ。
その中身は、「最高のおはなしの娯楽」だと思う。

最高のおはなしは、
最高のキャストや最高のロケーションや、
最高の予算でなくてもよい。
もちろんそれらが最高であれば更に最高になる。

ところが、
最高のキャストや最高のロケーションがあっても、
最高のおはなしになるとは限らない。
今の映画は、最高のおはなしが欠けている。
それは映画にとって死ではないかと思う。

潤沢なものがなくても、
最高のおはなしはいくつかつくることが可能だ。
実際にぼくは、ドラマ版「風魔の小次郎」、演劇「多分、大丈夫」、
映画「いけちゃんとぼく」の第一ターニングポイント以降(第一幕は成功ではない)、
などでコツコツと示してはいる。
作品置き場に、いくつかの短編シナリオも上げている。
更にコスト最小の小説でそれを示そうと、
「てんぐ探偵」なるオモシロ物語まで書きはじめた。


映画を脚本に取り戻せ。
映画はキャストの学芸会ではない。
映画は最高のおはなしという娯楽だ。

そのための導入、という意味の予告は、
第一幕から第一ターニングポイントのセンタークエスチョン提示までを、
上手く書くのがよいのだ。
何故なら、そこまでが「おはなしの導入」として、
脚本には書かれているからだ。

逆にそう書かれていない話なんて、
学芸会台本なんだ。
posted by おおおかとしひこ at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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