前項での議論が「正しい」かどうか、
現状の予告のやり方では分からないかも知れない。
今、映画とは何かが、ずれ始めている気がするからだ。
映画会社は、映画を何だと思っているのだろうか。
僕は映画を、「最高のおはなしの娯楽」だと思っている。
しかし昨今映画会社は映画を「最高のキャストの集結」だと思ってやしないか。
映画が最高のキャストの集結であるならば、
そいつらの飲み会でもスクリーンに出してればいい。
そいつらがコスプレする集会を2時間写してればいい。
いいロケーションにでも連れていき、
そいつらの旅番組でも流しておけばいい。
最高の芸能人の集会を、だらだらと流しておけばいいじゃねえか。
ジャニーズ映画なんてそんなもんだろ?
ジャニーズは歌や踊りについては素直に認めるけど、
こと芝居においては僕は認めない。
あんな下手な芝居を押しつけられるなら、僕は降りる。
映画が最高のキャストの集結であるならば、
試しにそんな集会ビデオをつくってみてはどうだい?
オフショットこみでさ。
普段見れない貴重な姿や表情も見れるぜ?
そんな見る動物園を、試しにつくってみなよ。
それはジャニーズ映画を見る人を動員しまくると思うよ。
人気芸能人は、歌舞伎の時代から看板と呼ばれる。
人は看板を見に来るのだろうか。
看板の奥の中身を見に来るのだろうか。
僕は両方だと思いたい。
看板で誘引し、中身を見せるものだと思っている。
昨今の看板は、人気芸能人、CG、人気原作、
凄いロケ、主題歌を手掛けたアーティスト、
などが流行りだ。
それらはあくまでパーツにすぎず、
「それが一体となって何をするか」が中身だ。
その中身は、「最高のおはなしの娯楽」だと思う。
最高のおはなしは、
最高のキャストや最高のロケーションや、
最高の予算でなくてもよい。
もちろんそれらが最高であれば更に最高になる。
ところが、
最高のキャストや最高のロケーションがあっても、
最高のおはなしになるとは限らない。
今の映画は、最高のおはなしが欠けている。
それは映画にとって死ではないかと思う。
潤沢なものがなくても、
最高のおはなしはいくつかつくることが可能だ。
実際にぼくは、ドラマ版「風魔の小次郎」、演劇「多分、大丈夫」、
映画「いけちゃんとぼく」の第一ターニングポイント以降(第一幕は成功ではない)、
などでコツコツと示してはいる。
作品置き場に、いくつかの短編シナリオも上げている。
更にコスト最小の小説でそれを示そうと、
「てんぐ探偵」なるオモシロ物語まで書きはじめた。
映画を脚本に取り戻せ。
映画はキャストの学芸会ではない。
映画は最高のおはなしという娯楽だ。
そのための導入、という意味の予告は、
第一幕から第一ターニングポイントのセンタークエスチョン提示までを、
上手く書くのがよいのだ。
何故なら、そこまでが「おはなしの導入」として、
脚本には書かれているからだ。
逆にそう書かれていない話なんて、
学芸会台本なんだ。
2014年12月04日
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