桃太郎批判を書いていて、似たような大構造を持つ、
傑作「七人の侍」との差異はなんだろうと考えた。
まずは、大筋の展開があるかどうかだと思う。
七人の侍では、「侍が次々に集まって行く」という展開部がある。
これはスプレッドのように時間が進まないものではなく、
時間軸が進む中で集まって行く。
まるで山へ茸狩りでもいくように、の場面が僕は好きだ。
これは敵の野侍との対決軸で示しているから、
「その数が減っていくこと」が展開の時計になる。
(おっと、大車田の「夜叉あと残り○忍」と同じだね。
四天王残り○人、七賢者あと○人、などのジャンプ的やり方だ。
トーナメントもある種そのような形式なのだ。
「喧嘩屋商売」はトーナメントの裏の動きが面白いように作っている、
新しいパターンだ)
似たような大構造に、ドラゴンクエスト4がある。
主人公全員が馬車システムで集まるまでが描かれる。
僕は各キャラを楽しんだが(トルネコが好き)、
今一つ冒険そのものを楽しんだ記憶がない。
勇者に感情移入出来なかったし。
それは、七人の侍のように、集める過程で時間軸が進むのではなく、
桃太郎のように、スプレッド構造だったからだ。
(レベル上げがあるから、主人公のレベルと登場時のレベルをバランス取ることが、
極めて難しいという別の問題もある。
ファイヤーエムブレムでの追加戦士が僕にはレベルが低すぎて、
僕はずっとオグマを使っていた)
キン肉マンの最初の劇場版(悪魔超人編だったかな)だったと思うが、
テレビ放送を見ていたら、うちの親父がこれは七人の侍と同じやな、
と呟いたことがある。
危機が起きて、ロビンやラーメンマンなど、次々に仲間を増やしていくのが中盤だったからだ。
親父も今思えばなかなかの映画好きだった。
里見八犬伝は薬師丸ひろ子版しか見たことがないが、
これも七人の侍パターンだったと思う。
(というよりも、南総里見をベースに七人の侍が出来た筈だ)
ペプシ桃太郎は、七人の侍をやろうとしていると考えられる。
仲間が加わる時間軸で描き、
鬼残り○人、をやれば最低限展開できるよ!と塩を贈ってみよう。
(もう手遅れだけど)
さて。ついでに比較してみる。
桃太郎は、このまま集結して鬼を倒すだろう。
(倒す対決は描かないかも知れない)
これは、集まって倒すという話だ。
想像する限りあまり面白くなさそう。なんでだ。
七人の侍も、集まって倒すという話だ。
何が違うのだろう。
はい、こないだの。
「目的がないからやー!」
桃太郎の目的は鬼を倒すことだが、
それがなんのためなのかが分からない。
分からないというのは、感情移入出来ないということである。
分からないことはない。鬼が侵略者だから。
しかし、桃太郎たちには何となくしか感情移入出来ない。
一方、七人の侍には感情移入出来るのか?
リーダーがお握りを使って事件解決する、登場シーンは、
なかなかの感情移入シーンである。
あるいは、菊千代が侍の身分でなかったことや、
若いやつの悲恋なんかも盛り込まれ、
一見感情移入へのキャラ付けがされてるように思える。
しかし本当の感情移入は、ラストシーンにある。
本当に勝ったのは、農民かもしれん、によって。
争いをする我々になんの意味があるのか、という自己批判、
ものづくりへの喜びという対比、
それは人類への批評にもなる、名シーンだ。
七人の侍にこのシーンがなく、単に野侍をやっつけて、成敗!
だったら、ペプシ桃太郎と同じような、ドラクエ4のような、
つまらなさになっていた筈だ。
このラストシーンこそが、
凡百の、集まって倒す系の話と、一線を画した、
感情移入シーンであり、文学なのである。
つまりは、テーマがあるかないかだ。
桃太郎のテーマに戻ろう。
「自分より強いやつを倒せ」。
やはり分からない。
何故それをしなければならないのか。
それをしないことで何の問題があるのか。
どうしてそんな無理なことを思うのか。
「成長を恐れるな」のほうがまだ分かるのだが。
つまりは「自分より強いやつを倒せ」は、
ストーリーのテーマになっていない。
だから、集まって倒すだけの、面白くもなんともないストーリーになる。
それがバレるのを恐れて、
かのクリエーターという名のイミテイター達は、
出落ちという刺激物を続けるのだ。
さあ、生ぬるい目で、猿雉編に注目だ。
2014年12月06日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック