テーマと物語の関係。
テーマと言うものは、執筆中、構想中、結構ぶれる。
最初にこんなテーマで書こうと思っていても、
いざ出来上がってみたら、
微妙に違うテーマの話になっているとか、
全然別のテーマになっているということは、
よくあることだ。
にも関わらず、
この作品のテーマは、(当初書くつもりだった筈の)○○だ、
と嘘をついてはいけない。
物語とテーマの関係は、
「そのテーマを示すような最も最適な物語で、
しかも最も斬新なもの」
が理想であると思う。
そうでなければ、物語にテーマがある意味がない。
無駄なパートや足りないパートのある物語が、
テーマを上手く(その言葉を言うことなく)伝えることなど、
決して出来ない。
そのテーマを表現するのに、最も無駄のない、
最も最小限の要素で構造を作ったものが、
最適であるに決まっている。
しかもその複数解のうち、
最も斬新でなければ、新しく物語を書く意味などない。
勧善懲悪を新しく書かず、中世の物語を味わい続ければいいのだ。
(歌舞伎は一種そういうところはあるが)
同じテーマで競作したことのある人なら経験があるだろうが、
同じテーマだからといっても、色々なパターンの物語があるものだ。
あなたはその中でも最も斬新なものを思いつく必要がある。
そうでなければ、新しい物語を作ったことにはならない。
芸術家とは、芸術を更新する者の事を言う。
あなたは、凡百の群れから抜け出し、目立たなくては意味がない。
この理想に近づけるには、
二つのアプローチがある。
ひとつは、テーマ優先である。
最初に決めたテーマに最適な、
最も無駄のない物語になるように、
現状のテーマに沿わない、しかし執筆時の思いつきで、
物凄く面白くなったところを、断腸の思いで切っていく。
それによって面白さが減るが、それは諦める。
テーマに対して、最適な物語に変更する。
それで面白くないのなら、
その構造のまま面白くなるように、斬新にしていく。
これはかなりの苦行だ。
針の穴を通す面白さのコントロール、
しかもぬるくなく豪速球で、が求められる。
人に頼まれて書くタイプの物語は、大抵こうだ。
テーマやコンセプトは先に決められていて、
それに合わせた構造、ディテールを構築しなければならない。
自分発信の物語だとしても、
テーマありきなら、このようにしたほうがよい。
もうひとつのアプローチは、
現状に合わせて最適なテーマを考え直すことである。
この話は一体何がテーマだったのかを、
あとづけで考えるのだ。
面白く書けた部分合わせにきっとなるだろう。
現状の一番いい部分は、
二度とそれに匹敵するものを作ることの出来ない、
偶然が作り得た奇跡である。
これを活かすように、テーマを合わせて行く。
仮にそのテーマを決めたとする。
次にすることは、最初のアプローチと同じだ。
そのテーマに対して最適な構造の物語に、
作り直すのだ。
このテーマだとすると、不要な設定やシーンもあるだろうし、
足したい部分も出てくるだろう。
それをやっているうちに、
更に面白いことを思いついてしまい、
テーマを新しく決め直す必要が出てくるかもだ。
こうして、このアプローチでは無限に再構築が繰り返され、
内容がぐずぐずになっていくことがとても多い。
ということは。
テーマに対して最適な構造で、最も斬新なものをつくる、
針の穴を通す、豪速球のような才能が、
必要なのである。
書いて、テーマを再設定し、また書いて、を繰り返すのは、
所詮アマチュアなのだ。
このやり方は疲れるし、効率が悪いし、挫折の確率が高いし、
諦めてなあなあのものを出す確率が、とても高い。
リライトの下手なやり方は、これを延々やることだ。
素材をいじり、テーマをいじり、
その無限のおっかけっこをやるうちに、
一体何をやってるか見えなくなり、
結局は中途半端なものしか出来ないのだ。
作劇の教科書にある、まずテーマを決めよ、
というやり方は、これらを前提とした考え方なのだ。
昨今の邦画大作が詰まらないのは、
何度もリライトを繰り返しているうちに、
テーマと最適な構造の関係が、さっぱり分からなくなってしまっているからだ。
斬新ですごいテーマを出すこと。
それに最適な構造の物語にすること。
それに最も斬新なものをつくること。
この順でやることが出来ないと、
所詮はアマチュア止まりの、理想より遠い脚本しか出来ないのだ。
それを肝に命じながら、沢山書いていこう。
試行錯誤の経験がないと、この力はつかない。
あることで最後まで予測する力が必要だからだ。
2014年12月10日
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