前記事の続き。
面白そうな初期設定を話しただけでは、
話とはいえない。
「学園同士の抗争の裏には、忍びの活躍があった」
だけで終わっても、話ではない。
そこから語られる、
小次郎の活躍や、蘭子との漫才や、姫子とのメルヘンや、
壬生との戦いがお話だ。
(ドラマ「風魔の小次郎」第一話)
あるいは、
「風魔一族と夜叉一族が殺しあう」
だけでも話ではない。
具体的なバトルや人間ドラマたち、
竜魔と小次郎の確執や、
麗羅の立ち位置や、項羽と小龍の確執や、紫炎と白虎や、
霧風と小次郎の関係性や、劉鵬と黒獅子のエピソード、
壬生や陽炎や武蔵の関係性などが、お話だ。
(風魔の小次郎の中盤)
「遠野の天狗の弟子になる」
だけで終わっても、話ではない。
そこから語られるシンイチの具体的な話、
心に隙間が出来たところから自力で妖怪を外すまでや、
天狗との出会いや、自殺する人を助けられなかったこと、
などがお話だ。
(小説「てんぐ探偵」第一話)
面白そうな設定を思いついたとしても、
それはまだ話ではない。
初期設定に過ぎない。
ログラインやあらすじですらない。
そこから、
誰が何をするか、どんなことが次に起こるかが、
お話である。
少し前に使った言葉で言えば、
初期設定は点に過ぎず、
そこから何が起こって行くか、という展開や結果が線である。
面白い話をしてくれ、というのは、
点を話せ、と言っているのではない。
面白そうな線になりそうな点を話して、
導入にすることはあるかも知れない。
(冒頭からつかむやり方)
しかしいかに冒頭が面白そうでも、
最後まで面白いとは限らないことは、
数々の駄作映画を思い起こせば簡単だ。
(例「ソードフィッシュ」)
或いは予告編詐欺のように、
初期設定だけ面白そうで、
中身を実際に見たら全然詰まらなかった経験もあるだろう。
つまり、初期設定の面白さと話そのものの面白さは、
必ずしも比例しない。
逆に、
そんなに惹かれない初期設定、平凡な点からでも、
面白い話をつくることは出来る。
僕の短編シナリオなどを見てもらえれば分かるが、
ロケの都合や予算感も考えて、
地味な人間ドラマになるようにしている。
しかし面白くない訳ではなく、
どれも手応えのある、面白い話である
(この場合の面白いとは必ずしも爆笑を意味しない)。
全く平凡な初期設定から、面白い話は多分書けない。
そこに面白いことがひとつ起これば書けるかも知れない。
ただの平凡では駄目で、
何かしら新規性や珍奇なものが必要な気がする。
新規で、珍奇な初期設定は大歓迎だ。
面白い話になりそうだからだ。
しかしそれだけでは話ではない。
中身、本体、
すなわちプロット、起承転結、
具体的エピソード、
動機と行動、事件と解決、
プロットとサブプロット、
グッと来る瞬間、台詞、掴み、伏線、落ち、
などなどが、話である。
なかなかそれらを一掴みにとらえることが出来ないから、
話というものは面白いのだ。
腹違いの外人の弟がいることや、
猫を17匹飼っているのは、
初期設定としては面白いが、
それは点だ。
小次郎の大暴れや、シンイチの心の動きに当たるものが、
ないから詰まらんのである。
あなたがどんなに面白い設定を思いついたとしても、
それはまだ話ではない。
それは、クラス替えをした春の初日に過ぎない。
面白いクラスになりそうだ、でしかない。
そこからの一年が、話の中身だ。
2014年12月13日
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