2014年12月13日

設定だけ語っても、話にはならない

前記事の続き。

面白そうな初期設定を話しただけでは、
話とはいえない。


「学園同士の抗争の裏には、忍びの活躍があった」
だけで終わっても、話ではない。
そこから語られる、
小次郎の活躍や、蘭子との漫才や、姫子とのメルヘンや、
壬生との戦いがお話だ。
(ドラマ「風魔の小次郎」第一話)

あるいは、
「風魔一族と夜叉一族が殺しあう」
だけでも話ではない。
具体的なバトルや人間ドラマたち、
竜魔と小次郎の確執や、
麗羅の立ち位置や、項羽と小龍の確執や、紫炎と白虎や、
霧風と小次郎の関係性や、劉鵬と黒獅子のエピソード、
壬生や陽炎や武蔵の関係性などが、お話だ。
(風魔の小次郎の中盤)

「遠野の天狗の弟子になる」
だけで終わっても、話ではない。
そこから語られるシンイチの具体的な話、
心に隙間が出来たところから自力で妖怪を外すまでや、
天狗との出会いや、自殺する人を助けられなかったこと、
などがお話だ。
(小説「てんぐ探偵」第一話)


面白そうな設定を思いついたとしても、
それはまだ話ではない。
初期設定に過ぎない。
ログラインやあらすじですらない。
そこから、
誰が何をするか、どんなことが次に起こるかが、
お話である。

少し前に使った言葉で言えば、
初期設定は点に過ぎず、
そこから何が起こって行くか、という展開や結果が線である。

面白い話をしてくれ、というのは、
点を話せ、と言っているのではない。


面白そうな線になりそうな点を話して、
導入にすることはあるかも知れない。
(冒頭からつかむやり方)
しかしいかに冒頭が面白そうでも、
最後まで面白いとは限らないことは、
数々の駄作映画を思い起こせば簡単だ。
(例「ソードフィッシュ」)

或いは予告編詐欺のように、
初期設定だけ面白そうで、
中身を実際に見たら全然詰まらなかった経験もあるだろう。


つまり、初期設定の面白さと話そのものの面白さは、
必ずしも比例しない。

逆に、
そんなに惹かれない初期設定、平凡な点からでも、
面白い話をつくることは出来る。

僕の短編シナリオなどを見てもらえれば分かるが、
ロケの都合や予算感も考えて、
地味な人間ドラマになるようにしている。
しかし面白くない訳ではなく、
どれも手応えのある、面白い話である
(この場合の面白いとは必ずしも爆笑を意味しない)。

全く平凡な初期設定から、面白い話は多分書けない。
そこに面白いことがひとつ起これば書けるかも知れない。
ただの平凡では駄目で、
何かしら新規性や珍奇なものが必要な気がする。



新規で、珍奇な初期設定は大歓迎だ。
面白い話になりそうだからだ。
しかしそれだけでは話ではない。
中身、本体、
すなわちプロット、起承転結、
具体的エピソード、
動機と行動、事件と解決、
プロットとサブプロット、
グッと来る瞬間、台詞、掴み、伏線、落ち、
などなどが、話である。

なかなかそれらを一掴みにとらえることが出来ないから、
話というものは面白いのだ。


腹違いの外人の弟がいることや、
猫を17匹飼っているのは、
初期設定としては面白いが、
それは点だ。
小次郎の大暴れや、シンイチの心の動きに当たるものが、
ないから詰まらんのである。


あなたがどんなに面白い設定を思いついたとしても、
それはまだ話ではない。

それは、クラス替えをした春の初日に過ぎない。
面白いクラスになりそうだ、でしかない。
そこからの一年が、話の中身だ。
posted by おおおかとしひこ at 14:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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