僕は歌ものCMをつくるのが苦手だ。
(出世作のクレラップは、歌ものだと思われているが、
30秒の中で歌は17秒しかない。あとはお芝居だ)
何故なら、歌にペースをコントロールされるからだ。
ここに、時間軸の秘密がある。
絵に時間軸はない。
ワンカットの絵が持つとか持たないとかはあるけど、
絵というものは基本的に時間軸がない。
つまり静止画的である。
カメラが動いたり、役者やモノが動いたりして、
変化をつけてようやく時間軸が発生する。
しかしどこかで止まる。
(動き続ける波などは、絵として特殊だ)
一方音は、絵がない。
時間軸しかない。
音は止まれない。やむことは出来る。
音が流れたりやんだりして、時間軸を表現することは出来るが、
音がやんでいる間、時間軸は存在しないかのようだ。
つまり、音楽は時間軸そのものだ。
絵には殆ど時間軸がない。
つまり映画とは、この二つの組み合わせなのである。
標準的なCMの絵コンテは、縦三列で表現する。
真ん中の列に絵を描き、左側の列に絵の説明、
右側の列に音のことをかく。
左側は静止画的な説明に、動きを足したものである。
たとえば○○ナメ○○の寄り、○○をしてフレームアウト、などだ。
右側は、台詞、音楽、SEなどを書く。
SEを漫画文字や擬音語で書いてあるのは、
おそらく日本のコンテだけだ。(ここまで擬音語が発達した言語は類をみない)
台詞はまるまる音のことだ。
音楽は盛り上がりポイントなどを指定する。
いずれにせよ、音は流れで書くものだ。
脚本の表現形式では、
台詞が多く、絵のことは詳しく書けない。
大体のことは分かるが、実際のカット割りは監督が脚本を見ながらやるものだ。
つまり、脚本とは、音の原稿なのである。
逆に、伝統的な映画の作り方とは、
音のことを脚本家が書き、
絵のことを監督がやるシステムだと言えるのだ。
因みに素人が把握していない基本的なことがある。
音が優先であり、
絵はそれに合わせるものである。
つまり、脚本がフィックスしないと、
絵を描くことは出来ないのだ。
CMの現場では、なかなか音のこと、
即ち台詞や言うべきナレーションが固定しない。
だからそれに振り回され、内容がどんどん微妙になってゆく。
映画でもそうだ。
脚本が決まってから制作開始になるべきなのだが、
キャストはある時からある時まで抑えたものの、
脚本がなかなか決まらないため、
準備期間が削られていくのである。
邦画の絵がしょぼいのは、
半分は予算のせいで、
半分は脚本が決まらないまま準備をせざるを得ない、
スケジュールのせいなのだ。
決して才能のせいではない。
さて、
何故僕が歌ものCMが苦手か、冒頭に戻ってくる。
音のペースが僕のものでなく、
歌詞が決められ、作曲家が時間軸を決めてしまう、
つまり、
時間軸を決める行為を奪われるからだ。
台詞の内容や間という、時間軸を操ることが、
ストーリーテラーの技術だ。
それを歌ものCMでは、100%奪われるのだ。
(クレラップが良かったのは、作詞が僕だからだ)
つまり、ストーリーテリングとは、
お話とは、
実は音による時間軸のことなのである。
焚き火を囲んだ原始人からおばあちゃんの昔話まで、
お話の上演形式は伝統的に、「語り」、
即ち音による時間軸のことだ。
話すペースこそが、話だ。
(余談だが、芝居の良し悪しは、見た目や身のこなしやポーズのかっこよさではなく、
台詞が上手いかどうかで決まる)
2014年12月13日
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