2014年12月14日

バックストーリー

相変わらずペプシ桃太郎関係のアクセスが多いので、
批評がてらバックストーリーの話を。

桃太郎エピソード0からエピソード1に至るまで、
やっていることは、バックストーリーの羅列に過ぎないことだ。


書き手として、一端バックストーリーをつくり始めたら、
楽しくなってしまうことはよくわかる。
好きな人が出来たら、その人の過去を知りたくなる。
自分の一族のルーツを探ったり、
歴史ミステリーは楽しい。
それは、「さかのぼる面白さ」と、仮に呼ぶことしよう。

さかのぼって面白いのは、
現在に感情移入しているときだけだ。
確固とした現在があるからこそ、
その過去をさかのぼるのは面白いのだ。

桃太郎の問題点は、現在がないことである。
そもそもの現在を、昔話にある鬼退治だという構造だ。
しかしそれは昔ながらのものではない、
「自分より強い奴を倒せ」という、
新解釈の新たな物語の筈だ。

その現在に当たる「本編」がないので、
そのバックストーリーをされても詰まらないのである。
我々は現在より先の、物語本編を見たいのだが、
延々と対して面白くない過去話を挿入され続けている。
だから詰まらないのである。

期待される本編とは、四人の旅の過程だ。
西遊記にたとえて言うなら、牛魔王を倒す話や、
流砂に巻き込まれる話などの事である。
クライマックスは鬼ヶ島だから、
そこに至る道程のあれやこれやが本編であり、
そこで「自分より強い奴を倒す」とはどういうことか、
に関する話があるはずである。
(僕のつくったバージョンでは、
次々に家来を集めていくことを本編としていた。
その行程で「自分より強い奴を倒す」ことに関する話をしている)


スターウォーズ本編(エピソード456)に対して、
ダース・ベイダー誕生譚がバックストーリーである。
これを映画化したものがエピソード123だ。
本編があるからバックストーリーが意味がある。

ところが、桃太郎は本編がなく、バックストーリーだけなのだ。

設定厨は、設定をつくっただけで満足してしまう。
それは前に、クラス替えの初日でしかないとたとえた。
これから起こる一年間が本編である。
その本編がないまま、延々とバックストーリーを述べているから詰まらないのである。
クラス初日を描きながら、一方春休みに犬は何をしていたか、
それ以前桃太郎は宮本武蔵と、などとやっているのである。
はよ二日目以降を見せろや、と思うのは当然である。



また、バックストーリーは、本編に伏線として使うときのみ
(観客にとって)意味がある。
あとで使わない伏線など、何の意味もない。
(精々使えるのは、武蔵の授けた剣が二つに割れて二刀流、
とか、犬の口のやつが犬笛みたいになる、ぐらいだろう。
それと自分より強い奴を倒せとの関係は何だろう。
道具は凄い、だろうか?)

逆に、バックストーリーは、
作者にとって楽しいことだ。
自分では感情移入しているものだから、
どんどん話が広がって行くのである。
これは、観客の感情移入と無関係に起こることを知っておこう。

観客の感情移入がなければ、
これはうっとおしいだけだ。
子供の自慢をしてくる親と同じだ。
お前の不細工な子供のことなんかしらんわ。

観客として見ればこのように簡単に分かることも、
作者の身内びいきはその目を曇らせる。



バックストーリーは、伏線として使う以外は、
観客にとって不要だ。
現在を描くのが映画だ。
もう少し言うと、現在の焦点を追うのが映画だ。

ペプシ桃太郎に、現在の焦点はない。
一番大事なものがないから、ストーリーではない。
だから映画化なんて出来る筈がない。

恐らくイミテイター達の頭のなかには、
次々に時系列をさかのぼっていく、
ノーランのデビュー作、「メメント」があるはずだ。


バックストーリーをさかのぼる面白さは、
ストーリーの面白さとは関係がない。
ストーリーとは、現在の焦点を追い、意外なターニングポイントで、
新たな焦点になる面白さの連鎖だ。

メメントはさかのぼる面白さはあったが、
映画としては面白くなかったと断言する。
posted by おおおかとしひこ at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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