不自然な台本は役に立たない。
自然なアドリブの出来る役者、芸能人、
キャスターなどの百戦錬磨の人に持っていかれてしまうだろう。
あなたはそれよりも自然な台本を書くのが仕事だ。
どうすればそれが書けるかは、修行するしかない。
修行というのはつまり、
あるものを書いて、
実際に演じてみて不自然なところを自覚し、
リアルだったらどうかを考え、取材し、
文字おこししたりして音と文字の関係をつかみ、
また書いて、
以下繰り返し、
を無限にやることだ。
僕は手書きでこれをやることを推奨している。
書きやすい鉛筆や万年筆や柔らかいボールペンがいい。
文字うちはどうしても変換という過程で音や概念と遠くなるし、
手が覚えることは、創作の基本だからだ。
絵描きが手癖でスラスラと描けたり、
書家が手癖でスラスラと書けたり、
彫刻家が手癖でスラスラと掘れるように、
文筆家は手癖で文章を書けるべきだ。
(手癖で変換まで含むかどうか。僕は文字うちは「手で考える」ことが出来ないと思う。
文字うちで文章を書く人は、手で考えることの出来ない、
芸術家としてはレベルの低い不器用な人間だ)
とにかく手で、リアルを覚えて再現できるようにする。
出来るようになるまで練習する。
これしかない。
根性論だ。
学習とは根性でしか身につかない。
理解する程度なら頭でなんとかなるが、
使って、応用して、新たにつくるには、
身につくまで繰り返すしか、方法はない。
(どんな勉強でもそれは同じだ。
受験でもスポーツでも、繰り返したやつしか身につかない。
説得力をつけるなら、この言い方はいやらしいが、僕は京大卒だ。
多少効率化することは出来るが、学習とは神経細胞を生まれ変わらせる刺激を与え続けるしかない)
声に出して読もう。
台本は目で読むものではなく、音の原稿である。
ちゃんと抑揚をつけて読もう。
台本は棒読みではなく、感情の起伏や間を入れて読むものだ。
その人の気持ちで読もう。
その人がどんな過去があって、どんな気持ちになって、
今どんなつもりでその言葉を言うのか、リアルに読もう。
演じながら読もう。
実際に立ったり座ったりしながら読もう。
台本は棒立ちで読むのではなく、動きの中で読まれるものである。
全ての登場人物の気持ちで読もう。
その人の視点から読むのを、登場人物全員の数分やろう。
台本は全員の出演するものだ。
ある人が喋っているとき、他の人の気持ちや考えは。
これらがリアルに感じられないのなら、
台本が悪い。
演者が下手なのではない。
どんな朴訥な人でも、真実の言葉ならそれは伝わる。
あなたは朴訥でも、真実の言葉をちゃんと書いているか。
それが自然ということだ。
人間は馬鹿じゃない。ごまかしはバレる。
粉飾は見抜かれる。
あなたが本気でその現場をリアルに想像出来たとき、
台本は自然になる。
ならないのは、想像力が足りないか、
想像を書き留める手が下手かのどちらかだ。
演技が自然な人を観察しよう。
演技とは、なりきりごっこの究極型だ。
その人は才能だけでなく、
これまで気の遠くなるような、なりきりの為の練習を積んだから出来るのだ。
同じ台詞や場面でも、一番自然ななりきりを研究した結果そこにいるのだ。
あなたは、そのなりきるものを、書くのである。
あなたがなりきれてなくて、彼がなりきれる筈がない。
脚本家と演者は、なりきりにおいて同じなのだ。
脚本家が文字で書き、演者は肉体を使うことしか、違いはない。
2014年12月15日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック