2014年12月21日

超自然的なものと、日常舞台のもの

てんぐ探偵20話の下調べをしていて、
能と狂言の違いにぶち当たり、ひとつの知見を得たので。

洋の東西を問わず、物語には二種類ある。

超自然的なもの、つまり神や鬼や幽霊などの出てくるものと、
現実の日常以外の要素を用いないものだ。


超自然的なものは、その超常ぶりが魅力だ。
妖怪、鬼神、幽霊、精霊など伝統的なものから、
宇宙人やUFOをはじめとするSFまで、
これらは物語の華である。

一方日常ものは、そのリアリティーが売りである。
すっとんきょうなものでなく、地に足のついた現実味で、
すぐそこで起こっている身近なことを描く。

前者は現実からどれだけ離れられるかが売りで、
後者は現実にどれだけ近づけられるかが売りだ。

しかし同時に、
現実から離れすぎたらどうでもいいし、
現実と近すぎてもわざわざ金を払うほどでもない。
だから、
前者は後者のリアリティーをなるべく取り込み、
後者は前者の突飛さや珍奇さをなるべく取り込もうとする。

つまり、一見全く違った両極は、
登り口が違うだけで、結果的には同じものを目指そうとしている。

つまりは、世界はどのようなものであるか、だ。


超自然的なものは、それを使って人間や世界の真実を炙り出す。

幽霊の恨みを晴らす物語では、その恨みにまつわる人間の暗部が主題だし、
恨みは必ず晴らされるべき、という世界のあるべき仕組みについての物語でもある。

神の国作りの神話では、我々は世界をどのように見ているか、
その元素は何かを炙り出すものである。

例えば愛の女神と結婚するのは勇者の神である話を見て、
我々は理想の男女像をそこに重ねるのである。
あるいはそれが悲劇に終わるなら、理想はなかなか実現しないことや、
お話では悲劇で終わったが、現実には○○に気をつければ大丈夫だ、
と教訓を得たりする。

幽霊や妖怪や宇宙人などの人外の者との交流では、
今目の前に見えている以外の原理がこの世にあることを見て、
逆に人間世界を相対化して見ることが目的である。

ターザンは、人間というものは醜い興味の為なら、
ゴリラたちや動物を剥製にしてしまう物語だ。
一体醜くて下等なのは動物か人間かどちらだ、
と人間に突きつける物語である。
(あまり見ていないので詳しく語れないのだが、
スタートレックの殆どの○○星人は、人間の何かの批評になっている筈だ。
我々と違う異民族と出会う話はすべてそうだ。
「ダンスウィズウルブス」も、現代アメリカ社会を、
インディアン側から炙り出すのである)



日常舞台のものでも同じだ。

本当に起こり得る何かに出会ったときに、
その人たちのリアルな行動や反応で、
人間とはどのようなものか、社会とはどのようなものかを炙り出す。
社会派は真正面から、
恋愛ものは人間の滑稽さや理想主義を描き、
コメディは人間や社会を風刺する。

単なるよくあることではなくて、
特別へんてこな事件(リアリティーの範囲で)が起こることで、
普段は感じなかった人間や社会のある部分が目立ってくる。
その強調こそが、人間や社会のある部分を描くことである。



さて、能と狂言の違いに戻る。
能は前者、狂言は後者だそうな。
しかも、能は音楽劇で、狂言は台詞劇という違いがある。
オペラやダンスやライティング(薪)など、
能はそっちサイドの演出と近く、
狂言は台詞や間や滑稽などの演出と近いのだ。

人間のつくる物語は、それほど進化していないのだなあ、
ということを納得してしまった。


さて、あなたのつくる物語はどちらだろうか。
どっちも書けるかも知れないし、
一方しか書けないかも知れない。

自分の作家性を確認する上でも、
いつもと逆のジャンルを書いてみたり、
その名作を見たりするのはどうだろう。

結局目指すところは同じだということが分かれば、
苦手と思っていたジャンルに得意技を使うことで、
新しい作風が生まれるかもよ。
posted by おおおかとしひこ at 15:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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