てんぐ探偵20話の下調べをしていて、
能と狂言の違いにぶち当たり、ひとつの知見を得たので。
洋の東西を問わず、物語には二種類ある。
超自然的なもの、つまり神や鬼や幽霊などの出てくるものと、
現実の日常以外の要素を用いないものだ。
超自然的なものは、その超常ぶりが魅力だ。
妖怪、鬼神、幽霊、精霊など伝統的なものから、
宇宙人やUFOをはじめとするSFまで、
これらは物語の華である。
一方日常ものは、そのリアリティーが売りである。
すっとんきょうなものでなく、地に足のついた現実味で、
すぐそこで起こっている身近なことを描く。
前者は現実からどれだけ離れられるかが売りで、
後者は現実にどれだけ近づけられるかが売りだ。
しかし同時に、
現実から離れすぎたらどうでもいいし、
現実と近すぎてもわざわざ金を払うほどでもない。
だから、
前者は後者のリアリティーをなるべく取り込み、
後者は前者の突飛さや珍奇さをなるべく取り込もうとする。
つまり、一見全く違った両極は、
登り口が違うだけで、結果的には同じものを目指そうとしている。
つまりは、世界はどのようなものであるか、だ。
超自然的なものは、それを使って人間や世界の真実を炙り出す。
幽霊の恨みを晴らす物語では、その恨みにまつわる人間の暗部が主題だし、
恨みは必ず晴らされるべき、という世界のあるべき仕組みについての物語でもある。
神の国作りの神話では、我々は世界をどのように見ているか、
その元素は何かを炙り出すものである。
例えば愛の女神と結婚するのは勇者の神である話を見て、
我々は理想の男女像をそこに重ねるのである。
あるいはそれが悲劇に終わるなら、理想はなかなか実現しないことや、
お話では悲劇で終わったが、現実には○○に気をつければ大丈夫だ、
と教訓を得たりする。
幽霊や妖怪や宇宙人などの人外の者との交流では、
今目の前に見えている以外の原理がこの世にあることを見て、
逆に人間世界を相対化して見ることが目的である。
ターザンは、人間というものは醜い興味の為なら、
ゴリラたちや動物を剥製にしてしまう物語だ。
一体醜くて下等なのは動物か人間かどちらだ、
と人間に突きつける物語である。
(あまり見ていないので詳しく語れないのだが、
スタートレックの殆どの○○星人は、人間の何かの批評になっている筈だ。
我々と違う異民族と出会う話はすべてそうだ。
「ダンスウィズウルブス」も、現代アメリカ社会を、
インディアン側から炙り出すのである)
日常舞台のものでも同じだ。
本当に起こり得る何かに出会ったときに、
その人たちのリアルな行動や反応で、
人間とはどのようなものか、社会とはどのようなものかを炙り出す。
社会派は真正面から、
恋愛ものは人間の滑稽さや理想主義を描き、
コメディは人間や社会を風刺する。
単なるよくあることではなくて、
特別へんてこな事件(リアリティーの範囲で)が起こることで、
普段は感じなかった人間や社会のある部分が目立ってくる。
その強調こそが、人間や社会のある部分を描くことである。
さて、能と狂言の違いに戻る。
能は前者、狂言は後者だそうな。
しかも、能は音楽劇で、狂言は台詞劇という違いがある。
オペラやダンスやライティング(薪)など、
能はそっちサイドの演出と近く、
狂言は台詞や間や滑稽などの演出と近いのだ。
人間のつくる物語は、それほど進化していないのだなあ、
ということを納得してしまった。
さて、あなたのつくる物語はどちらだろうか。
どっちも書けるかも知れないし、
一方しか書けないかも知れない。
自分の作家性を確認する上でも、
いつもと逆のジャンルを書いてみたり、
その名作を見たりするのはどうだろう。
結局目指すところは同じだということが分かれば、
苦手と思っていたジャンルに得意技を使うことで、
新しい作風が生まれるかもよ。
2014年12月21日
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