古典的には、この二つしかなかったという。
現代では様々なジャンルが出来たため、
君の書くのは悲劇かい?喜劇かい?
ということもないのだが、
物語というものを考える上で、
古典的な二分法を考えることに意味はある。
何故なら、この二つは「日常の逸脱」の、
二通りを示しているからだ。
我々人類は、物語の世界以外、つまり普段は、
日常を生きている。
日常にはルールがあり、それはおいそれと変化せず、
逸脱した者には厳しい処罰がある。
だからか、物語というのもは、そこからしばし逸脱するものである。
一時の仮想の夢のようなものだ。
悲劇は、日常から逸脱したのち、破滅する話、
喜劇は、日常から逸脱したのち、日常に帰還する話である。
現代映画風に言えば、バッドエンドとハッピーエンドだ。
悲劇では、
日常から逸脱していく様に、我々は憧れ、痺れる。
若さゆえの反抗から犯罪者呼ばわりされ、追手から逃げる話、
退屈な夫婦生活に現れた本当の恋、
集団や親に決められた運命を断り、自らの意思を貫く話。
我々の一種の日常逸脱願望がそこに投影される。
能のように、鬼神や幽霊や超常現象と結びつき易いのも、
逸脱願望が充足されるからだ。
(中二病の原因もここである)
しかし、そこまで逸脱して、日常に帰って来られる筈がない。
集団の規則や日常を維持する力はとても強い。
だから主人公は死ぬしかないのだ。
死ぬことで、世間にとって逸脱はなかったことになったが、
本人にとっては、逸脱しきったことになる、
というのが悲劇の基本的構造だ。
(勿論それ以外の悲劇のパターンも沢山あるだろう)
だから悲劇の一番の売りは、日常の逸脱の仕方だ。
どう全然違うことをするかなのだ。
そして、どう死ぬかがテーマになる。
生まれ変わったら夫婦になろう、でもいいし、
鮮烈にこの若さはフィルムに焼き付いた、でもいい。
それが命の最大のほとばしりになる。
それは世間に対する強い主張だ。死んで主張するのだ。
親から逃げて知らない土地で結婚するのも、一種の死である。
悲劇とはそのようなスタイルで、日常を異化するのである。
逆に、喜劇は、バカやアホや間抜けを描き、
日常から逸脱する。
馬鹿だからしょうがない、と日常の逸脱を許すのだ。
アホの坂田やからしょうがない、ジミー大西だからしょうがない、
と世間はそのアホぶりを許すのである。
滑稽とは、日常世界の厳密なルールから外れることで起こる。
人が転んで面白いのは、人は日常では転ばないことに決められているからだ。
つまり、普段やらないこと、やっちゃいけないことの中に、
滑稽が潜む。
(葬式でやっちゃいけないことの連続で笑わせるのは、
コントの古典的定番である)
日常からの逸脱は、その滑稽を中心に起こる。
アホだから日常を逸脱してよく、
そこで巻き起こる騒動は、日常ではやっちゃいけないことの連続だ。
良識ある人がやると怒られるだけだが、
アホだからしょうがない、と免罪符があるのだ。
作者からすれば、ここで日常を上手く逸脱出来る。
偉そうな権威者に泥を被せてもいいし、
隣の奥さんの浮気を暴いても構わない。
人々が日常の嫌だと思うことを、
これでもかとひっくり返して見せるのが滑稽であり、喜劇だ。
喜劇は、アホによって日常を逸脱する。
アホ側から、日常を異化するのである。
ツッコミとは、ボケに対して、日常との距離感を保たせる技術だ。
やはりこれは逸脱しているのだな、という確認によって、
笑っていいのだ、という許可を出すのである。
ツッコミの基本は「なんでやねん」であるが、
「何故そういうことになるのだ、日常の常識で固まった世界でそれは異常なことだ」
を略した言い方である。
つまりそれは、日常と異常を対比しているということだ。
喜劇は、アホを描くことで日常を逸脱する。
それはハッピーエンドに終わることになっている。
逸脱して巻き起こした騒動は、
再びいつもの日常を取り戻した、と安心して終わる為である。
ただの馬鹿の騒動なら疲弊するだけだが、
滑稽の喜劇では、何故かスカッとする。
それは、日常の逸脱が気持ちよかったからだ。
(本当の日常でのバカに振り回されるときの不快と、
真逆になることに注意せよ)
悲劇も喜劇も、
日常へと回帰するラストにテーマ性がある。
悲劇は、日常の何かへの痛烈な批判である。
喜劇は、○○なんてこりごりや、という落ちで、
実は日常には○○という欠陥がある、
という風刺をするのである。
悲劇より喜劇のほうが高度だ、
と言われる所以はこれである。
喜劇は、実はブラックジョークをアホの衣で誤魔化しているのである。
より頭の良いやり方なのだ。
伝統的なスタイルに拘ることはないが、
人類が到達した二つの対称的スタイルを研究するのも、
悪くない。
あなたに足りないものは何だか教えてくれるかも知れない。
洋画の基礎になっているのは、ギリシャ演劇やシェイクスピアなどの演劇であり、
それを基礎にしている小説などである。
邦画の基礎になっているのは、歌舞伎であり、その大本は能や狂言だ。
京劇の影響もあるだろう。勿論ハリウッドの理論も流入している。
テレビは民間芸能を吸収して、映画会社がテレビ映画と称してドラマをつくりはじめた。
それらの影響下に、あなたの作品も生まれるということを自覚してみよう。
何も知らないで書いたほうが新鮮なものをつくれる、
などと若いときはいきがるものだが、
あなたが考えたことは、
ギリシャ時代から人類が考えたことの、
大抵どこかにあるものだ。
(映画的実験なら、ゴダールとヒッチコックが大体やっている)
勢いで何本か書くのはとても良いことだが、
それは必ず枯渇する。
枯渇する前に、人類がどう考えてきたかを知るとよいかも知れない。
2014年12月22日
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