2014年12月22日

世の中には、悲劇と喜劇がある

古典的には、この二つしかなかったという。

現代では様々なジャンルが出来たため、
君の書くのは悲劇かい?喜劇かい?
ということもないのだが、
物語というものを考える上で、
古典的な二分法を考えることに意味はある。

何故なら、この二つは「日常の逸脱」の、
二通りを示しているからだ。


我々人類は、物語の世界以外、つまり普段は、
日常を生きている。

日常にはルールがあり、それはおいそれと変化せず、
逸脱した者には厳しい処罰がある。
だからか、物語というのもは、そこからしばし逸脱するものである。
一時の仮想の夢のようなものだ。


悲劇は、日常から逸脱したのち、破滅する話、
喜劇は、日常から逸脱したのち、日常に帰還する話である。

現代映画風に言えば、バッドエンドとハッピーエンドだ。



悲劇では、
日常から逸脱していく様に、我々は憧れ、痺れる。
若さゆえの反抗から犯罪者呼ばわりされ、追手から逃げる話、
退屈な夫婦生活に現れた本当の恋、
集団や親に決められた運命を断り、自らの意思を貫く話。

我々の一種の日常逸脱願望がそこに投影される。
能のように、鬼神や幽霊や超常現象と結びつき易いのも、
逸脱願望が充足されるからだ。
(中二病の原因もここである)

しかし、そこまで逸脱して、日常に帰って来られる筈がない。
集団の規則や日常を維持する力はとても強い。
だから主人公は死ぬしかないのだ。

死ぬことで、世間にとって逸脱はなかったことになったが、
本人にとっては、逸脱しきったことになる、
というのが悲劇の基本的構造だ。
(勿論それ以外の悲劇のパターンも沢山あるだろう)

だから悲劇の一番の売りは、日常の逸脱の仕方だ。
どう全然違うことをするかなのだ。
そして、どう死ぬかがテーマになる。
生まれ変わったら夫婦になろう、でもいいし、
鮮烈にこの若さはフィルムに焼き付いた、でもいい。
それが命の最大のほとばしりになる。
それは世間に対する強い主張だ。死んで主張するのだ。
親から逃げて知らない土地で結婚するのも、一種の死である。

悲劇とはそのようなスタイルで、日常を異化するのである。



逆に、喜劇は、バカやアホや間抜けを描き、
日常から逸脱する。
馬鹿だからしょうがない、と日常の逸脱を許すのだ。
アホの坂田やからしょうがない、ジミー大西だからしょうがない、
と世間はそのアホぶりを許すのである。

滑稽とは、日常世界の厳密なルールから外れることで起こる。
人が転んで面白いのは、人は日常では転ばないことに決められているからだ。
つまり、普段やらないこと、やっちゃいけないことの中に、
滑稽が潜む。
(葬式でやっちゃいけないことの連続で笑わせるのは、
コントの古典的定番である)

日常からの逸脱は、その滑稽を中心に起こる。
アホだから日常を逸脱してよく、
そこで巻き起こる騒動は、日常ではやっちゃいけないことの連続だ。
良識ある人がやると怒られるだけだが、
アホだからしょうがない、と免罪符があるのだ。

作者からすれば、ここで日常を上手く逸脱出来る。
偉そうな権威者に泥を被せてもいいし、
隣の奥さんの浮気を暴いても構わない。
人々が日常の嫌だと思うことを、
これでもかとひっくり返して見せるのが滑稽であり、喜劇だ。

喜劇は、アホによって日常を逸脱する。
アホ側から、日常を異化するのである。

ツッコミとは、ボケに対して、日常との距離感を保たせる技術だ。
やはりこれは逸脱しているのだな、という確認によって、
笑っていいのだ、という許可を出すのである。
ツッコミの基本は「なんでやねん」であるが、
「何故そういうことになるのだ、日常の常識で固まった世界でそれは異常なことだ」
を略した言い方である。
つまりそれは、日常と異常を対比しているということだ。


喜劇は、アホを描くことで日常を逸脱する。
それはハッピーエンドに終わることになっている。
逸脱して巻き起こした騒動は、
再びいつもの日常を取り戻した、と安心して終わる為である。

ただの馬鹿の騒動なら疲弊するだけだが、
滑稽の喜劇では、何故かスカッとする。
それは、日常の逸脱が気持ちよかったからだ。
(本当の日常でのバカに振り回されるときの不快と、
真逆になることに注意せよ)


悲劇も喜劇も、
日常へと回帰するラストにテーマ性がある。

悲劇は、日常の何かへの痛烈な批判である。
喜劇は、○○なんてこりごりや、という落ちで、
実は日常には○○という欠陥がある、
という風刺をするのである。

悲劇より喜劇のほうが高度だ、
と言われる所以はこれである。
喜劇は、実はブラックジョークをアホの衣で誤魔化しているのである。
より頭の良いやり方なのだ。




伝統的なスタイルに拘ることはないが、
人類が到達した二つの対称的スタイルを研究するのも、
悪くない。
あなたに足りないものは何だか教えてくれるかも知れない。

洋画の基礎になっているのは、ギリシャ演劇やシェイクスピアなどの演劇であり、
それを基礎にしている小説などである。
邦画の基礎になっているのは、歌舞伎であり、その大本は能や狂言だ。
京劇の影響もあるだろう。勿論ハリウッドの理論も流入している。
テレビは民間芸能を吸収して、映画会社がテレビ映画と称してドラマをつくりはじめた。

それらの影響下に、あなたの作品も生まれるということを自覚してみよう。

何も知らないで書いたほうが新鮮なものをつくれる、
などと若いときはいきがるものだが、
あなたが考えたことは、
ギリシャ時代から人類が考えたことの、
大抵どこかにあるものだ。
(映画的実験なら、ゴダールとヒッチコックが大体やっている)

勢いで何本か書くのはとても良いことだが、
それは必ず枯渇する。
枯渇する前に、人類がどう考えてきたかを知るとよいかも知れない。
posted by おおおかとしひこ at 11:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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