昨日某プロデューサーと飲んでいたのだが、
気になる発言があったのでメモをしておく。
どうやったら映画をつくるための資金を集められるか、
という相変わらずの話だったのだが、
「内容は好み」という発言がずっと引っ掛かっている。
映画製作の資金の集め方は、
今こうだというセオリーがある。
人気役者や人気スタッフ(監督ほか)を集め、
その持っている客が最低これだけ来るという見積もりを立てる。
(監督の名を取って、○○ワールドなんて言い方をするのは、
その固定ファンの数字を見込んだ商売ということだ)
人気原作もそのひとつである。
人気音楽もそのひとつである。
これらは、出版社や音楽会社から、
資金提供を受ける為の仕組みでもある。
制作費を賄う代わりに、うちの○○でよろしく、
という仕組みだ。(最近は芸能事務所も、そのひとつになることもある)
さらに最近はこれでも資金が足りないらしく、
同時にアニメ化することや、
パチンコ連動や、
ゲーム連動などを実現することで、
資金提供を受け、
ビッグビジネスとして成立させることが増えてきた。
ここに、座組みという考え方が生まれる。
たとえば、この俳優、この監督、この原作、
このアーティスト、このアニメ会社、
というチームを揃えて、
この座組みなら、○○億必要で○○億儲かる規模になるだろう、
という予測のことである。
一座を組む、ようなことと考えると分かりやすい。
かつては決まったメンバーで座組みをしていた
(例えば東宝映画、東宝芸能、東宝音楽、東宝特撮など)が、
昨今の流動的なビジネスでは、
そのたびに座組みをすることが常識になっている。
さて、これは想像すればわかるが、
最初はA×Bなんて新鮮味で売れるだろうが、
いずれその組み合わせに飽きてくるという欠点がある。
飽きた頃に次の人気芸能人が供給され、
飽きないループが出来ることが前提のシステムだ。
(いっとき、ラブストーリーで順列組み合わせと揶揄されたことがあった。
有限個の組み合わせは、飽きるのだ)
傭兵集団が、仕事のたびに集まるイメージをするといい。
一見プロ集団が集まって何かをするのはカッコイイのだが、
実はそれは毎回違うものをつくる業界だと言うことを忘れてやしないか。
仕事が終われば解散だから、
反省会がない。
あのときああすればよかったとか、
あそこはこうするべきだったとかの、
成長がない。
勝手に成長した苗を刈り取ってきて並べ、
終わったら捨てるのが、座組みというシステムだ。
次々良くなっていく、ということは出来ない。
そのメンバーが、合うか合わないかのほうが重要だ。
それは、偶然にすぎず、努力の余地のない部分である。
更にこのシステムを是とするのが、
リクープという考え方だ。
この座組みなら○○億は固い、という考え方をしたら、
その目標金額を突破すればあとは全部黒字になる、
ということを、リクープするという。
リクープしなかったということは、
想定儲けに届かなかったことである。
つまり、座組みをして、リクープラインを設定することが、
プロデューサーの主な仕事になってしまう。
○○億の商売をする、という考え方だ。
さて、重大な欠陥があることに気づかれるだろうか。
ここまで、一切、ストーリーの話が出てきていないのだ。
この話が面白いからヒットするとか、
この話が詰まらないからヒットは難しいとか、
ないのである。
「リクープする座組み」が第一なのだから、
脚本など三の次になってしまうのである。
これが邦画が駄目な理由だ。
座組みを集め、それぞれから○○億集め、
○○億儲け、○○億それぞれにバックする、
というリクープラインを設定し、
たまたまそれ以上にヒットしたら、
内容が良かったのだろう、
とプロデューサーは考えるのである。
思ったより客足が伸びない、これではリクープラインを割ってしまう、
とプロデューサーは考えるのである。
それは座組みの選択を見誤ったと考える。
思ったよりこの俳優は客を持っていなかった、とか、
ターゲットに響かなかった、とかだ。
さて、ここでもおかしい。
詰まらないからヒットしない、という、
観客なら当たり前のことを見逃しているのである。
さて、
面白いかどうかだろう、と反論してみたら、
「内容は好みだから」と納得しているようで、
僕は内心驚いた。
内容は好みではない。
出来がいいか悪いかがまずあって、
出来のいいものに関して好みが分かれるだけである。
もっと正確に言えば、
なるべく多くの人が好むものを、つくるべきなのである。
それは一体どんなものか、に議論の多くを費やすべきであり、
人それぞれの好みだから予想できず議論できない、
という思考停止をしてはいけないのだ。
面白さは主観である、という話は以前にした。
見る人にとっては個人的体験だが、
ストーリーテラーにとっては、
全ての観客の顔が見えている、共有体験なのだ。
皆の共有体験として価値のある、
皆を納得させ、感動させるものはどういうものかを、
議論していないのは単なる思考停止だ。
それは、ストーリーテリングとはなにかを、
考えたことのない、才能のないプロデューサーだと、
自ら滑稽にも告白していることになる。
そういうプロデューサーがつくるものは、
内容は好みによるから、
それには触れず、座組みとリクープラインだけを設定する、
ガワだけの作品になるだろう。
それはつまり、詰まんない話なのだ。
ストーリーを作る力は、
圧倒的な才能と努力が必要だ。
プロデューサーになるには、それを専業でやれないものだ。
だから、ストーリーとはなんだということに、
殆ど向き合っていないのだ。
内容は好みによる、という思考停止からつくられた、
惨憺たる内容の邦画を見るといい。
このままでは邦画は死ぬかも知れない。
ということで、
内容本位の「てんぐ探偵」の執筆に戻ります。
2014年12月23日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック