テーマと物語の構造について。
お話の中では、テーマ(今回は、BE BAD)を言葉で言ってはならない。
誰かの決めたルールではなく自分の良心に従え、とか、
ルールを破ってまでも正しいことはするべき、とか、
法律順守が必ずしも最善ではない、とか、
この話をテーマを書くことが出来るだろうが、
それは言葉で言っていない。
それはこの話から「読み取ること」だ。
(最後にコピーでテーマを書いたように見えるが、
これは行動喚起のアジテーションであり、テーマではない。
逆にコピーとは、お話を見終えた上で、
それが見事に心に響くように書く。
コピーのことについては広告の話なのでここでは割愛する)
逆に、話を見れば読み取れるように、
一語も使わなくても分かるように、
話の構造をつくるのである。
運転手は悪を犯す。
スピード違反やら一時停止違反やら住居不法侵入だ。
警官も悪を犯す。
違反切符を破り、もみ消したことだ。
どちらも、出産の為にしたことだ。
ラストの男の二人の視線の交わしあいが粋だ。
どちらも、ルールを破ることは悪いことだと知っているが、
出産の為には、そのルールを破ることは必ずしも悪ではない、
と分かっている、大人の行為なのだ。
二人とも悪いことをしたのだが、
それが善行となっている、悪から善への逆転、
という構造そのものが、テーマを語っているのである。
さて、テーマを台詞で言わず、全て行動で示していることに注目しよう。
これは、行動(動詞)を中心としたあらすじを書いてみるとわかる。
運転手、妊婦を乗せ病院へ急ぐ。
警官、スピード違反に気づき、追う。
運転手、違反と分かっても急ぐ。
警官、(職務上)違反切符を書くが、
出産の為と知り、その切符を破り、見なかったことにする。
たったこれだけだ。
このシンプルな構造の中に、BE BADの精神が全て入っているのである。
映画は、行動である。
映画は、動詞である。
四の五の言わずに、行動で示す。
名もなきこの二人の男たちの行動が、
何も言わなくてもテーマを示すように、
話を組んでいくのである。
ちなみに、僕の発想はこんな感じだったので記録しておく。
チェイスやりてえなあ。
(やるなら田舎か、都会なら深夜かな、と絵を想像してみる)
→じゃ「切迫した正当な理由で、スピード違反しまくる車」をだそう
→とりあえず妊婦を乗せてることにしよう、絶対正義だし。
その為にスピード違反をしてしまうことは、
ルール違反としては悪だが、擁護されることだ
(きっとスピード違反だったことで色々言われるのだが、
妊婦の為だったのか、といい人扱いされるラストになるだろう)
→チェイスというからには、その車を警察が追うだろう
→その二台のチェイスが出来るぜ!
→で?
→病院へつき、出産は成功したとしよう、警官は?
→警官も運転手の「敢えてやった」ことを理解し、
同じことで返すのはどうだろう、
例えば違反切符をその場でビリビリ破って捨ててしまうのは。
つまり、敢えて見なかったことにしてやる、という和解だ。
そうすれば互いにBE BADの価値を共有した、
名もなき大人の男たちの話になるか。
→出来た。
→あとは一番やりたい、チェイスの部分でも詰めようっと。
こんな感じで、テーマありきで、
行動でテーマを示すように作っていくのである。
物語の構造、人物の配置や行動の意味が、
テーマを示すようにそもそも作る、
ということを覚えておこう。
とくにラストの行動が、一番テーマを示す。
(この場合、違反切符を破り捨てること)
次は三幕構成について。
2014年12月24日
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