2014年12月26日

5分シナリオの研究7: テーマ、モチーフ、コンセプト

テーマとモチーフとコンセプトは、分けて考えた方がいい。
具体的に示そう。


モチーフとテーマについては、
既にたくさん書いている。

テーマとは、主人公または観客の学んだこと、
一幕で足りなかったもの、である。
作者の主張と考えない方がいい。

物語は、作者の主張をするところではなく、
面白い話を楽しむところである。
言いたいことは論文やブログでやるべきで、
物語にさせてはいけない。

下手な主張は、キャシャーンを見るといい。
結局演説シーンになる。
僕が「ルーキーズ」が嫌いなのもまさにそこだ。
何故なら、他人の説教ほどうるさいものはないからだ。
人は聞く耳を持つときしか、聞かないからだ。

主張は、明にするより、暗にするとよい。
人は何故だか、堂々とされるとどうでもいいのに、
隠されると気になる生き物である。
それが全部見えているより、
少し隠れて見えそうなことが一番興味をそそる。
パンチラの原理である。
隠れていることが分かり、なおかつ、見えそうなこと
(ほんの一部だけ見えたこと)が、
想像力を一番刺激するからではないかと思う。

テーマとはそのようなものであるとよい。
そこから推理される真実のようなもののように、
全てを組み立てるのである。


「深夜のチェイス」では、
ルールより大事なことがある、とか、
緊急時の行動や判断は大事、とかがテーマである。
これは大元のテーマ「BE BAD」を更に噛み砕いたものだ。
抽象的で扱いづらいものを、
ストーリーで扱いやすいように解釈しなおしたのである。

モチーフは、妊婦を乗せて交通違反をしまくるタクシーと、
それを知って違反切符を破る警官である。

モチーフを使って、テーマを暗示する構造になっていることが分かるだろう。

モチーフとは、ストーリーに現れた具体物である。
これを使って、テーマを暗示するのがよい。

モチーフとテーマは同じものではいけない。
それはパンチラでなくパンモロだ。推理する楽しみがなくなってしまう。
ルーキーズの演説はパンモロだ。だから白けるのだ。

逆に、ストーリーを楽しむとは、
モチーフによる、テーマの暗示を楽しむことなのだ。

凄いアクションとかCGを楽しむことや、
美男美女にうっとりすることは、
中身であるストーリーを楽しむことではなく、
ガワを楽しむことである。

ストーリーを楽しむことは、見る楽しみではなく、
「読み取る」楽しみだと言って良い。
だから、バカはストーリーを楽しむことが出来ない。
だから、バカは小説を読めない。
だから、バカは脚本を書けないし、読めない。
今邦画がヤバいのは、バカに合わせてバカが作っていて、
賢い人がバカに金の力で黙らされているからである。

さて、そのバカの目を引くものを、
コンセプトという。

これはここを「見て」楽しむのですよ、
という部分だ。

この作品で言うなら、チェイスである。
(それを楽しんで下さい、とばかりにタイトルが付けられている)
作品の売りとも言われる。
今回はこのような趣向で楽しんで下さい、
という企画に相当する。

映画的な楽しみ、例えば、
アクション、うっとり、豪華、希少、ヒリヒリするリアリティー、
等々である。
これはガワの楽しみであり、点で静止画的な、名詞で表現出来るものである。
これはバカにでも分かる。
一枚の面白い絵を見せればいいからだ。

例えば、「魔法にされた野獣は愛を知ると人間に戻れる」(美女と野獣)
という面白い設定も、コンセプトである。
これはモチーフにもなり得る。
何故なら、「人の美醜は見かけではない」というテーマを暗示する可能性があるからだ。
醜い野獣を嫌う女が、彼の心の美しさに気づき、
人は見かけの美醜ではない、と心を変化させれば、
そのモチーフでテーマを暗示出来る。
ところが、「美女と野獣」では、そこまで上手くテーマにたどり着いていない。
野獣の醜さも、彼の心の美しさも、いまいちだったと思う。
似たような失敗は、「愛しのローズマリー」でもある。
結局主人公が、「人は美醜ではない」と変化するところが、
我々の心が動くように描けないと、
我々の心に刺さらないのだろう。

ディズニーはミュージカルで、
ローズマリーはコメディ要素で、
ガワであるコンセプトを固め、
このテーマとモチーフの関係の弱さを補っている。
だからそこそこヒットした。

ガワ、コンセプトは、だから、
ストーリーそのものの出来が悪いときの、保険なのだ。

先日プロデューサーが、ガワの話しかせず、
中身の話をしないことを嘆いたが、
ストーリーそのものが何かすら、分かっていない可能性がある。
コンセプトを人は見に来る。
それは多くの観客が、まだストーリーそのもののを見ていないからである。
コンセプトは予告などで扱えるから、
それで人を引くのである。
しかし、最後に見終えるのは、
モチーフで暗示したテーマである。

それが出来が悪いものは、出来の悪いストーリーなのだが、
木戸銭はもう払ってしまっているので、興行とは関係なくなるのである。
(それを憂いた萩本欽一が、見終えたあとにいくらでも金を払う方式を、
実験的にやってみたが、収益がなく終了した。
つまり、ほとんどの客は評論家ではない)


あなたは書く側であり、
バカな観客やバカなプロデューサーではない。
殆どの客は評論家ではないし、
木戸銭が中身と関係なく興行成績になることも、知っておいたほうがよい。

にも関わらず、
面白い話を、皆求めているのである。



それは2時間だろうが、5分だろうが同じだ。
5分シナリオは、2時間のものの縮図であり、
相似形であるのだ。
5分を沢山書け、という僕のオススメ鍛練法は、
そのような短編を沢山考えろ、ということなのだ。


さて、5分シナリオの研究、これにておしまい。
沢山書いて、成功したり失敗しよう。
見るのはたった5分でも、
これぐらいのことが出来ていないと、
出来た話ではない。
良く出来たピッチングフォームと同じである。
やるのは一瞬、考えることは一生。
posted by おおおかとしひこ at 14:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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