見立てというのは、日本文化の粋のひとつである。
何かを何かに見立てることで、
お話を進める方法だ。
これが、高画質のデジタル世界では、しんどくなってる気がする。
アニメがまずきつそうだ。
描き込む量が増えて、
そもそもデフォルメによって世界を表現する、
浮世絵からの日本的伝統が、
機能してない気がする。
新海誠以来、背景のものすごいリアリティー×アニメ的な人物絵、
というのが標準的になったが、
(そういえば「インターステラー」は「ほしのこえ」でもあるよね)
省略された背景や、抽象的背景というのが減ってきた気がする。
70年代のアニメ、たとえばハイジなどの背景を見ると、
非常に省略するのが上手いと感じる。
それは、見立てによってなされている。
わずかなものを描いて、それでこれだと思ってください、
という控えめな主張であり、見るがわもそれを良しとする。
そこは本題ではないからである。
見立てとは省略である。
水彩画のボケの部分、カメラのフォーカスの来てない部分(ボケ)、
以下略などの文章で省略する部分だ。
(例えばてんぐ探偵18話妖怪「任せられない」では、
古川との最終的和解は省略されているし、
皆まで語らないほうが粋である)
デジタルは高画質になりまくり、
肉眼以上に細かいところまで写すようになった。
これでは省略や見立てが嘘臭くなる。
着ぐるみの消失、発泡スチロール的な材質の美術、
紙粘土などによるつくりもの、
などがテレビから失われつつある。
(ひょうきん族のクライマックスは毎回それだったのにね)
それは、リアルだというよりも、
見立ての面白さを競っていたからだ。
見立ては文化である。
リアルじゃないなんてツッコミは野暮だ。
かつては見立てで表現できていたものが、
高画質で急速に失われていっている。
逆に、リアルなものしか存在価値がなくなってきて、
つくりごとがペラペラに見えている。
「インターステラー」は、宇宙船のドッキングや、
コールドスリープや、ブラックホールはとてもよかった。
リアリティーの極限だからだ。
ところがそれが五次元世界になると、
見立ての世界に急になってしまって、
そこだけ漫画になってしまった。
リアル→見立ての接続が全くうまくいっていない。
一方「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」における、
夢の世界はどうだ。
全部が見立てによる表現で、何がリアルか分からない、
という領域まで来ている。つまり、テーマと表現が一致している。
ノーランがうる星2や四畳半を見てないと仮定して、
あの五次元世界をブラックホール同等にリアリティーがある、
と思うのなら、少々想像力が無さすぎると思う。
高次元生命体なら、打ち切られた漫画「度胸星」に秀逸な表現がある。
あの見立てのリアリティー(あくまでリアルな感じ)に、
五次元世界は負けている。
デジタルは人を幸せにしない。
見立て表現が苦しくなってきている。
それは、俳句は駄目で、
文字が増えたから小説のほうが素晴らしい、
というぐらい、馬鹿な話だ。
現行のフォーマットと機材では、俳句をやりたくても、
小説にしなければならない苦しさがある。
(「コンタクト」はその案配が上手かった)
2014年12月31日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック