「インターステラー」批評の続き。
仮にテーマが愛だとして、
一応科学と愛が対義語になっているシーンを思い出した。
アンハサウェイが、「次にどの星へ行くべきか」の議論で
言ったことだ。
アンは、科学で解明されていないものの代表で愛を語った。
(結果的に、その星では住めそうだというラストが、
「愛の勝利」を暗示する)
しかしちょっと待て。
主人公は科学的合理主義で、一応論破したのではなかったか。
娘に会いたいという愛を忍ばせつつ、
合理主義が勝ったのではないか?
ところが五次元世界では、愛があふれる。
どうやらこの物語は、
科学イラネ→愛より科学を取るべき
→科学(ブラックホールによるスイングバイ、重力ターンと巧みに訳されていた)
によって、愛をなす(ちょっと好きなアンを助ける)
→愛を五次元世界から伝える、その言葉は二人の共通の言葉、科学
という、科学=愛という止揚を達成しようとしたことが、
伺えるのである。
とするならば。
中盤(二番目の星)は、まるまるないほうが良かったのではないか?
マットデイモンの役はなくて、死んでて良かったのではないか?
マットデイモンの残したロボットVS主人公たちのバトルで、
アクシデントさえ起こせば次に繋げるのではないか?
マットデイモンのストーリーが、話をややこしくしている。
博士が既に方程式を解いていて、
プランAは最初から無理だった、という衝撃の事実は必要だっただろうか?
これが科学と愛の止揚の物語に、どういう役割をするのか?
博士も、マットデイモンも、愛のない真の科学者でもない、
という為のパートとしては、長過ぎやしないか。
「インターステラー」の脚本は、
軸が小さい(陳腐)のに、それがバレるのが恐くて、
余計に盛ることで色々誤魔化している構造をしている。
主人公の孫の咳の下り、いる?
あれ、マットデイモン発狂とカットバックせんがための道具でしょ?
まさかクリストファーノーラン信者って、
カットバックで盛ってるのに誤魔化されて、
それぞれのストーリーラインはたいしたことない、
って気づかない、読解力がない人たちのこと?
ノーラン信者は、いつも雰囲気や深いことを誉めるのだが、
どう深いかについて、あまり語れる力を持たないようだ。
試しに、カットバックされている複数のストーリーラインを、
カットバックせずに、順に並べてみてほしい。
第二の星でのマットデイモン発狂と、
地球での咳からの畑炎上(これよくわからなかった)を、
別のシーンとして再現してみてほしい。
それぞれは、ごく普通の、平凡なストーリーラインだということが分かる。
それを、「緊迫感」を演出するカットバックにより、
繋がれているだけなのである。
「24」「ボーンアイデンティティー」あたりから、
このような緊迫した状況を、
同時進行させる、カットバック法がとても増えてきた。
リアルな緊張感などが売りになっている。
ひとつの焦点を追う伝統的物語りではない、
いわば最新のスタイルではあるのだが、
結局弱い複数の焦点しかない、
たいしたことのない話を、
カレー粉をまぶして料理として成立させるテクニックに過ぎないのである。
試しに、おれがうんこするまでと、彼女が会社に出るまでをカットバックしてみよう。
俺、凄まじい表情で決意。
彼女、髪を何気なくブローして鼻歌。
俺、ずかずかと廊下を歩く。脂汗。
彼女、スーツに袖を通すが、考えて一端脱ぐ。
俺、バーンと扉をあける。
彼女、別のスーツに替える。
俺、ズボンを脱ぐ。
彼女、ケータイを見る。
俺、座る。
彼女、考える。まあいっかと思い、扉へ急ぐ。
俺、拳を握りしめ、叫ぶ。
彼女がバーンと扉をあけるのと、俺のうんこが、
素早く何度もパパパッとカットバック。
なんてことのない二つのストーリーラインが、
カットバックさせるだけで、
何やら意味ありげな謎を醸し出し、
間やスピード感によって、何か緊迫した凄い進行に見え、
何かしらのカタルシスがあることが分かるだろう。
例えばアングルを工夫し、
似たような横顔でカットバックしたり、
構図を左右対称にするだけで、
「このふたつには因果関係がある」ことを暗示することができる。
俺と彼女はまだ知り合ってもいない現実とは関係なく。
ノーランのカットバックテクニックを一度分解して考えることは、
ノーラン節を解体し、設計図だけに丸裸にする方法である。
彼女が髪をブローして扉をあける。
俺がうんこする。
のように、ただの順接に戻すのである。
そのようにしたとき、
やはりこの映画のテーマが分からなくなってくる。
科学と愛の対義概念が、五次元世界では止揚される、
ということが主軸だとすると、
無駄が多すぎやしないか、と思うのである。
翻って、2001年宇宙の旅を見返すとよい。
「進化とは何か」という一点だけを、
しつこくしつこく描いている。
テーマと表現がとても近いところにいるのだ。
「インターステラー」は、ただの見せ物小屋でしかなく、
文学にはあまりにも遠いと僕は考える。
お洒落なバーのBGVに、とても良いのではないだろうか。
2014年12月31日
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