2015年01月02日

それがどうやって解決するのか?

そもそもそれを決めていないのに、
書き始めてはいけない。

書いてる途中に思いつけばいいや、
とか、今思いついた冒頭の凄い部分を書き留めたいから、
という理由で書き始めたものは、
確実に挫折する。
主人公が陥った「一体これをどうやって解決すればいいんだ?」という、
観客が「一体これがどうやって解決するんだ?」という状況を、
作者も「一体これをどうやって解決させればいいんだ?」と、
思ってしまっているからだ。


問題の解決をするには、
まずその問題がどのような背景で起きたのか、
何故今まで起きなくて、今回起きたのか、
を明確にする必要がある。
(理由がきちんとあってもいいし、物凄い偶然でもいい。
例えば災害ものは後者である)

それにどんな要素が絡んでいて、
その原因は何で、
どれをどうすれば解決できるか、
を、考えなければならない。

例えば誰も解決出来ないこと
(大統一理論の完成:「インターステラー」)
を解決にしてはダメだ。

「誰か」が必ず出来ることがその解決方法になっていることが重要だ。
(その誰かの特殊能力でもいいし、誰かと誰かの組み合わせでもいい。
或いは必然性がなくとも、解法に気づいた人や、実行してしまった人、
でも構わない)
その意味で、物語における全ての問題は、
作者によって既に解かれた問題を提示していることになる。
ただすぐ解けても興ざめだから、
一見誰にも解けないような難問に見えていたり、
凄く危険だったり、困難だったり、確率が低かったりするのである。
(ネタバレが悪なのは、問題の前に答えを言ってしまうからだ)


たとえば量子力学的には、壁に毎日ぶち当たり続ければ、
壁の向こうへすり抜ける確率は0ではない。
誰かの計算によれば宇宙滅亡まで試行しても現実的な確率にならないらしいけど、
もし「閉じ込められた」という問題に対して、
量子力学的に壁の向こうへすり抜けること(トンネル効果の実現)が、
解決だとしたら、
それは確率的に低すぎて現実的じゃない、と誰もが思うだろう。

問題の設定の、絶妙な難易度が試されるのである。
簡単に解決できるものや、
人類には今のところほぼ不可能な解決では、
詰まらないのだ。


デウス・エクス・マキナの話を。
どうしても当事者同士で解決できない問題を作ってしまったとき、
落ち付近で、
「神」の力で解決するものを、デウス・エクス・マキナという。
これは、神の信仰がテーマのもの以外でやってはならない。
基本、神はいない前提で、物語は作られるからだ。
与えられた条件を、登場人物だけで解決しなければいけないゲームを、
急に別ルールを持ち込んだように思えるからだ。

例えばモンゴルの侵略VS薩摩隼人の戦記ものを、
二時間近くやって来て、落ちは台風で全滅、
は、デウス・エクス・マキナによる解決である。
(史実なんだけど)
人間である薩摩隼人たちがどう撃退するか、がセンタークエスチョンなのに、
他の絶対的な力で解決してはならない。
薩摩隼人AやBや朝廷のCの奇策で大逆転しなければならない。
元寇が大河にならない理由がこれだ。
「人の力で解決すべき物語形式」が、
超自然で解決するからである。


僕がインターステラーの脚本をなんだかなあと思うのは、
五次元人(または未来の地球人)が、
デウス・エクス・マキナだからだ。
ブラックホールという科学から、急にデウス・エクス・マキナという、
単なるご都合になってしまうからだ。
実際には五次元人は舞台を用意しただけで、
行動そのものは主人公がしたから、
厳密な意味でのデウス・エクス・マキナではないが、
明らかに抵触している。


作者の側から見ると、「誰もが絶望したときに奇跡が!」なのかも知れないが、
観客の側から見ると、おいおいそこでご都合主義かよ、になるのである。

ご都合主義を避けるには、伏線を張るとよい。

元寇が台風で決着がつくのなら、
「あと一ヶ月戦線を持たせろ」という軍師がいても良い。
その軍師は誰からも馬鹿扱いされ、理不尽に殺される。
親友のその遺言を覚えていた司令官が、
もうダメだと一ヶ月経って力尽きようとしたときに、
台風が来るのである。
「誰も信じなかったアイツは正しかった…!」という予言成就の瞬間を、
クライマックスに持ってくれば、不自然なご都合主義ではなくなる。
(感動するかどうかはまた別の話)

五次元人の唐突さは、「幽霊は俺だったのか」という伏線解消の面白さの、
影に隠れている。
(多くの凡庸な観客はそちらに気をとられることを、
分かってやってる小ずるさを感じる)
最初から五次元人がいる、という話にしていれば、
それはデウス・エクス・マキナにはならない。
(そうすると、殆ど「コンタクト」と同じ話になるのだが。
宇宙という科学をやっているはずなのに、
いつの間にかハイヤーセルフなどのネオスピリチュアル系に話がいくのはどうしてだろう。
五次元人の名称は、明晰夢でハイヤーセルフに会う人達が言い出した、
オカルトなネーミングであることを知ってる人はどれくらいいるのだろうか)

或いは土星付近で都合よく回収されるラッキーについては、
「ワームホール付近には周回パトロールがいる」ことを前ふるだけで良いかも知れない。


つまりデウス・エクス・マキナを避けるには、
最初からそれがあり得る、という世界に設定しておくことだ。
しかし、それを前ふった時点で、バレバレになってしまうことが予測される。
デウス・エクス・マキナは、巧妙に隠さなければならない。
結局、そんなものを使わないことに越したことがないと分かるだろう。


また、多くのCMでは、
売るべき商品が、デウス・エクス・マキナの役割を果たす。
困ったどうしよう?(今まで知っている方法では解決できない!)
→そんな時これ!新商品登場!
つまり、今までの世界になかったものが、
いきなり登場することで問題が解決するのである。
たかが15秒では簡単に解決するべきだが、
二時間もかけて苦労して、デウス・エクス・マキナが出てきたら、
ご都合主義もいい加減にしろ、と怒られるのは必至である。

CMクリエイター多田拓が脚本を書いた、
世紀の駄作「survive style 5+」という映画がある。
これも、デウス・エクス・マキナによる解決だ。
様々に問題のあった群像劇が、
「鳩であると催眠をかけられた岸辺一徳が飛ぶ」という、
超物理学的な、意味のわからない解決によって全てが解決するのである。
これをシュールと見るかご都合と見るかだ。
僕はシュールになりきれていないご都合と見る。
落ちに必要なこと「腑に落ちること」が欠落しているからだ。
(「マグノリア」がやりたかっただろうことは見え見えだ。
しかし宗教的な意味のあるマグノリアのデウス・エクス・マキナとは異なる。
マグノリアは、ある意味信仰の映画でもあるからだ。
同様に信仰による落ちを用意したのが「サイン」であるが、
宇宙人という信仰とかけ離れた要素と同居したため、
デウス・エクス・マキナになってしまった)

同様に、松本人志の「大日本人」でも、
今までの問題が急に特撮ウルトラマンになって解決する。
これもデウス・エクス・マキナの例だ。
シュールと見るかご都合と見るかでいえば、
これもご都合にすぎない。

どちらも、ご都合というよりは、困ったので、
「強引にそれまでと関係ない凄いもので落とした」
ようにしか見えない。
それは、デウス・エクス・マキナの定義そのものだ。
これは、中世の演劇の頃からいた魔物の名である。

(逆にチャウシンチーの「カンフーハッスル」では、
デウス・エクス・マキナを逆手に取って、大仏落ちという壮大コントをやってみせた。
そう言えば漫画「風魔の小次郎」もデウス・エクス・マキナである神が登場し、
聖剣戦争を終わらせている。それがどのようなものであったかの、
決着的意味がないまま打ち切りとなったので、
聖剣戦争とは何だったかが分からないまま、四半世紀以上たってしまった)



それがどうやって解決するのか?を、
上手くコントロール出来ないと、
どうしてもこのようなものに頼ってしまう。
他力本願による解決である。
(ただでさえ敗戦国日本は、自分より大きなものに解決してほしいという依存心がある。
ウルトラマンはアメリカの象徴である、という議論はそれだ)



解決の過程を、論理パズルのように組もう。
脚本は文系より理系の力がいる、という俗説は、
実はここの部分のことを言っている。

何故こうするのか、何故こうしないのか、
その時相手は何を考えていたのか、
将棋の対局に昔たとえたが、
理屈をどう組み上げていくかが、
問題をどう解決するのか、の楽しみなのだ。

しかも先読みされないようにする案配が難しい。

これを究極的に複雑にしたものが、
伝統的ミステリーや、どんでん返し系や、
変なゲームに強制的に参加させられることになった系の物語である。
究極的に簡単にしたのは、
80年代の筋肉バカのアクションだろう。
(その直系は○○無双かな?)


それをどう解決するのか?に関わる過程では、
作者のIQがモロに出る。
ミステリーは頭のいいやつの娯楽だろう。
ちゃんといろんなことを考えないと不備だらけになるからだ。

かといって、普通の話がバカでも書けるかといえば、
そうではない。
それなりに頭のよさがいると思う。

女性作家は、身近な所に問題を巧みに設定し、
身近な範囲で解決するのが上手い。
下手な女性作家は、理屈が感情に変わってしまって失敗する。
男性作家は、より広い世界(社会)での問題設定と解決が上手い。
下手な男性作家は、極端に世界滅亡を問題にしてしまって上手く解けず、
デウス・エクス・マキナやセカイ系に逃げてしまいがちだ。
(セカイ系の元祖と言われる「最終兵器彼女」では、
彼女ちぃがデウス・エクス・マキナだった)


あなたは、問題を設定したら、
必ずその「面白い(奇想天外な、予測できない、或いは分かっていても夢中になる)」
解決法を考えなければならない。

問題と解決はペアだ。

様々な解き方があったり、
段階的に考えれば解けるようになっているのを、良問といい、
とんでもなくひねくれていたり、
複雑なだけでその忍耐力を試されるのを、悪問という。
あなたは、悪問のようなものをつくらずに、
良問のようなものをつくることだ。
(誰でも解けるのは易問なので意味がない)


ちゃんと最初に与えた武器だけを使い、
論理的に考えていけば正解にたどり着けるが、
簡単に予測できるものではなく、
しかも閃きや展開があっと言わせるような、
問題とその解決を考えること。

それが面白くない限り、決して書き始めてはいけない。

必ず、詰まらない話だなあと自分で思い始めてしまって、
書く気がなくなるか、
変な要素を付け足して訳のわからない迷宮に入るか、
困ってしまってデウス・エクス・マキナの力に頼るしか、
なくなってしまうからである。



解決方法のヒント。
主人公一人で解決出来る問題にしないこと。
複数の人が関わること。
すると必ずもめるからである。
ドラマとはもめごとだ。(コンフリクトを今もめごとと訳している)

極端に言えば、頭数を揃えるだけで問題は解決することもある。
昔の戦争ものはそんな気配がある。
(戦争は物量である)
それですら、複数のもめごとが面白かった。

呉越同舟もの、例えばガンダムのような、
強制的に同じ場所に閉じ込められた人たちは、
それだけでドラマになる。
ポセイドンアドベンチャーも同じやり方だ。

実は、問題と解決の面白さよりも、
このような個性あふれるキャラのもめごとが面白くなるパターンのほうが、
圧倒的に多いのではないか。
一幕と三幕でやるべきテーマよりも、
二幕のお楽しみ部分の方が面白くなるパターンだ。
キャラたちが面白ければ、
それが解決する三幕はそれなりに面白くなるからだ。
例えばスターウォーズは、ハンソロやダースベイダーのキャラで、
全編を見せていることに注意したい。
主人公ルークそのものは、3に至るまで、
たいして感情移入出来ない。
ダースベイダーの息子という問題が出来るまで。


いずれにせよ、一幕だけ書くのは、
最後まで書けなくなる死亡フラグである。
解決の道筋を練ってから、はじめて書くことを勧める。
posted by おおおかとしひこ at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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