ということで、「ゴーンガール」批評。
と思ったのだが、対して書くことがない、
脚本的にはごく普通の悪女ものだった。
デビッドフィンチャーはゲイなのだろうか。
いつも男を撮るのが上手くて、女は奇形ばかりだよね。
或いはノーマルでは興奮しないタイプかも。
ヒロインの尻のたるみ具合には、お父さん興奮しないぜこれ、
のニュアンスが漂っていた。
10年前なら、ニコールキッドマンがいたのにねえ。
以下ネタバレあります。
モンタージュ効果というのは、
同じショットでも、
前後に繋ぐカットによって、
全く別の意味になってしまうことを言う。
この映画では、言うまでもなくトップカットと、
ラストカット近くのショット、
ベッドの上で頭を撫でられていた妻が起き上がり、
こちらを見る目である。
なんの文脈も与えられていないトップカットのときには、
美しい、愛らしい妻である意味のショットとして使われる。
ところが、一通りの冒険を終えたあとに、
同じショットを繰り返すことで、
同じ見た目なのに、その中には恐ろしいゲス女が棲んでいることが
我々には分かっているから、
恐ろしいほどの嫌悪感が沸き立つのである。
唯一、ここが面白かった。
確認していないが、全く同じショットの筈である。
(そうでなければどや顔で使う意味がない)
同じショットでも、
文脈が違うだけで、我々の解釈がまるで変わってしまう、
以後引用されやすい、
分かりやすいモンタージュ効果を見た。
素人は、絵を重ねて意味をつくると思っている。
絵が先にあって、組み合わせで意味をつくっていくと思っている。
逆だ。
意味を、絵のパーツで組み合わせるのだ。
意味が先にあって、絵はその道具に過ぎないのだ。
モンタージュ効果とは、絵なんて意味よりあとだ、
と言っていることに等しい。
だから意味、即ち脚本が大事なのだ。
ゴーンガールの作品批評は、全くたいしたことない。
フィンチャーは、年々技術に走るだけの人になっている気がする。
これもベタな脚本を、
何やら意味ありげに撮影して編集する達人になっている気がする。
例えば「湖の別荘」なんて、
普通のハリウッド映画なら「ホワットライズビニース」みたいに撮っちゃうからね。
それをあんなヘンテコな邸宅にしてしまうのが、フィンチャーのセンスと言ったところ。
いつもカメラが引きでは横に動いていて、
いつも室内ダウンライトアンバーイエロー片影照明で、
屋外はグリーンライティングプラス煙で。
早いカッティングで謎を先送りするのは、
ドラゴンタトゥーやソーシャルネットワークとおんなじだ。
脚本自体は70年代のリバイバルかと思った。
悪女ものみたいなジャンルが流行ったよねえ。
マタハリとか李香蘭とかアナタハンの女王とかね。
あのときは実録だったけど、今回は創作。
しかしアメリカも病んでるねえ。
美しい女を信用し過ぎちゃ駄目だぜ、って、
不二子ちゃんが教えてくれないからかねえ。
醜女の深情け、って大人の日本語を、アメリカに教えてやるか。
信用できるのは、出来るブスだけだぜ。
(7/13追記:ネットで、これは同一ショットではなく、
別テイクであることを知りました。
なんや、意味ないやんけ!
じゃああの映画の価値はどこにあるの?
中盤の逃亡生活の、DQNカップルのシークエンスだけじゃん!)
2015年01月03日
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