最近の映画に増えた音楽のジャンルを、
何と言っていいか分からないが、こう名付けてみる。
伝統的オーケストラでもない、
さりとて劇伴と呼ばれる従来の作曲法でもない、
きちんとした楽譜のないような、絵にあわせて鳴る、
ミニマルとかアンビエントとか呼ばれるジャンルに近い感じだ。
ME(音楽を効果音がわりに使うこと)的に、
ミニマル音楽を使うとでも言えばいいのだろうか。
不穏や進行の代わりになるこの音楽。
偶然か必然か、ゴーンガールもインターステラーもそうだった。
最近の絵づくりは、何故だかフィックスを嫌う。
必ず手持ちでやや揺れているか、
横ドーリーでずっと横にゆっくり動いているか、
ステディで後ろを追っかけたりする。
ピタリと止まっているカメラ、
あるところからクレーンで降りてきてピタリと止まるカメラ、
などがなくなってきた気がする。
フィックスと動くカメラの違いは、
単純に言えば安定と不安定だ。
物語とは動く状況の事だから、
不安定な状況を描写するのに、
カメラがフィックスよりも不安定なカメラのほうが相応しい、
と考えるのは、
…浅はかである。
例えば玉乗りピエロがいかにぐらぐらした不安定さを保っているか見せるには、
カメラは止まっているべきだ。
止まっている軸から見るから、ぐらぐらしていることが分かるのだ。
揺れているカメラから揺れているものを取ると、
「これはぐらぐらしている」という知性が働かず、
「何だかよく分からないが、ぐらぐらしてるっぽい」という絵になる。
つまり、見てる側が不安になる。
最近の映画に不安定なカメラが多いのはこのためだ。
つまり、「見てる人に知性を働かせない」ためなのだ。
そのような不安な状況から、
手がかりを探すようにさせるのである。
意味ありげに写る表情や台詞の端々に、
この不安の出口を求めさせるのだ。
不安な状況を安心させるのは、アナウンスである。
電車が止まったときのアナウンスを思い出すといい。
つまり絵が不安定だから、
長めの台詞という、音による現状報告だ。
だから状況を整理しようとする説明台詞を聞こうとしてしまう。
そしてそれは、容易に騙すためのトリックになりうる。
一端そう信じこませておいて、あとでひっくり返すのだ。
何度も言うように、台詞は嘘をつき、すること(絵)が真実を語るからだ。
その絵が不安定で知性を働かせないように撮ると、
真実が何か分からず、
台詞を信じるしかなく、
しかしそれは裏切られるかもしれないという、
「何一つ確かなものがない」という状況になる。
これに拍車をかける音楽が、
冒頭で解説した、意味ありげな音楽だ。
不穏で、事態が進行している感じはするのに、
一体確かなものは何だか分からない、
という状況に仕立てあげるのである。
デビッドフィンチャーの演出法は、殆どそうだ。
クリストファーノーランはこれにカットバック法を混ぜ、
時に重厚な音楽をかける程度の違いしかない。
つまりこれらの演出法は、
「没入させるためには、観客の安定した知性を奪う」
という方法論である。
もっと極端なものはPOV映画(主観カメラ)や、
ワンカットものやドキュメントスタイルだ。
僕は、これらの演出スタイルは、
「脚本の不備を補う」ためのスタイルだと思っている。
もし脚本が、
きちんと状況を知性で把握し、
それでいて事件に驚き、興味を持ち、
感情移入をし、
登場人物の気持ちになって寄り添いながら、
冒険をしてゆき、
カタルシスがあり、
知性と感情でテーマを噛み締める、
出来の良いものであれば、
全部フィックスで良いからだ。
手持ちカメラの臨場感なんてなくて良い。
不穏な進行の音楽なんてなくて良い。
真っ向勝負で、脚本の良さを素直に演じ、
正攻法のオーケストラで勝負すれば良い。
(ディズニーはそれをしようとしているが、
一定の偏向がある)
つまり、
デビッドフィンチャーやクリストファーノーランのスタイルは、
駄目な脚本を、事件に巻き込み知性を奪うことで、
「何だか凄いものを見た」という気にさせる、
駄目な食材を揚げてカレー粉をまぶすことで、
食べられるものにする調理法に過ぎないのだ。
試しに、手持ちカメラで身の回りを追いかけ、
それにゴーンガールのサントラをかけてみるといい。
何やら意味ありげな、不穏な進行の雰囲気のスパイスがかかる。
つまりフィンチャー風味の料理が出来上がる。
(屋外の夜グリーン照明を焚くか、
ベッドルームでアンバーイエローで薄暗い間接照明にするとさらに良い)
逆に、
フィックスでストレートに、
頭の中でゴーンガールを表現してみればよくわかる。
あの女の作戦、後半穴だらけだぜ。
それに気づく知性が、風味で麻痺させられているだけなのだ。
ゼログラビティもインターステラーも、上下のないカメラワークで、
我々の地に足のついたフィックスの知性が、発揮できないところで、
行われているだけなのである。
(まあ元々シチュエーションパニックってそういうジャンルだよね。
元祖ポセイドンアドベンチャー、タワリングインフェルノやエアポートシリーズとかね)
映画が、観客対監督の知性の戦いだとすると、
初手「手持ちプラス意味ありげな音楽」で、
観客の知性が奪われるのである。
それは姑息なやり方だなあ、と観客である我々は、
そろそろ気づくべきなのではないか。
いい脚本が、ハリウッドでも不足しているということだ。
つまり、デビッドフィンチャーやクリストファーノーランが評判を呼ぶのは、
あちらでも、ガワに騙される人が多いことを、
示しているようではないか。
ビリーワイルダーや、ウィリアムワイラーや、
スティーブンスピルバーグや、ロバートゼメキスのような、
正攻法のフィックスカメラの、
地に足のついた、ストーリーテラーが望まれるところである。
勿論、俺がやりたいと思っていて、
その一部はてんぐ探偵でやろうと思っているのだが。
(それを単に王道と言ってもいいし、僕はそれが普通と思っているのだけれど)
意味ありげな音楽をiPodでかけながら、
その辺をうろうろ歩いたり自転車に乗ってみよう。
それだけで日常が不穏で意味ありげに見えてきて楽しいぞ。
音楽にはそんな力がある。
そして、そろそろそれに飽きる時ではないだろうか。
(これから日本でパクられて消費されるかもだけど)
そろそろ気づいてるだろう。
意味ありげな音楽は、
所詮ありげなだけで、本当に意味があるわけではないことに。
本当に意味があるときは、ありげなものは不要なことに。
2015年01月03日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック

