2015年01月03日

国語の客観試験が日本人を馬鹿にしているのではないか

客観試験とは、
「本文に書いてあること」に基づいたことが正解、
と考える国語試験独自の方法論である。

マークテストの選択肢式では、
本文に書いてないことを選んだら×だ。
世間の常識で正しいが、本文には書いてないこと、
というミスリード選択肢がよくある。
それは×だ。
何故なら、本文こそが金科玉条だからだ。

これが馬鹿を生むのではないか。
「人は表現において間違う」ことを教えないからだ。


表現とは、
「とある理想があって、それを正確に表したもの」が
正解ではない。

正確に表すのは基礎段階である。
たとえばデッサン、音程、水平やまっすぐ、誤字脱字、振り付け通り、楷書
などである。
それは教室の中レベルであり、
そもそもそれが正確に出来ないなら表現はやめておくべきであり、
外に出すものや公に流布しているものは、
そこから大分進んだものである。

それらは、
「基礎通りには決して表現し得ないもの」を、
何とかして表現しようと試みているものだ。
「まだ定型表現のないもの」を、つまり、
新しいものを表現しようと試みているものだ。
つまり、新しい表現であり、新しい内容なのである。

それらは、吟味に吟味を重ねているとはいえ、
100%練られた、正しい表現とは限らない。
多少間違いを含むことよりも、
新しいことをしようとした結果を重視したものである。
それが表現の最前線であり、
表現の実戦である。
だから、最前線のものは、必ず不備や間違いがある。
おかしなところもある。


国語の客観主義に染まると、
本文が間違っているという可能性を最初から排除してしまう。

偉大なる偉人が書いた、我々凡人には思いもつかない、
完璧なるものだと言うように。
勿論表現者は完璧を求めるが、
自分の限界一杯でも尚理想に届かないこともあるし、
今100%だと思っていてもあとから考えたら全然だったということもある。

客観主義は、それを全く考慮に入れていない。
入れていないから、
本文こそが絶対になり、
そこから少しでも外れたら排除されなければならないという風潮を生む。

表現とはもっと自由で曖昧なものだ。
どうにかして苦労して表現したから、
100%伝わらなくてもいいから、
この奥底にある名前のまだついてないこの感情を理解してくれ、
というのが表現だ。
多少間違ってるかも知れないが、
その言わんとするところを汲んでくれ、
というのが表現だ。

客観主義はその反対である。
言わんとする内容ではなく、
表面的文章形式的に、そこにあるかないかを問うのである。
おかしなことだ。
表現者と、逆のことを○×をつけるのである。
モチーフとテーマで言えば、
表現者はモチーフを用いて、本当はテーマを言いたいのに、
テーマは言葉にならない不定形だから、
客観的に形を持ち、客観的に○×をつけられる、
モチーフを問題にするのである。

僕は高校時代既にそのような違和感を国語試験に感じていたので、
文系に進むことは諦めた。
ドラえもん好きだったから理系に行きたかったのもあるが。

理系の言語は楽だ。意味と形式が一致していて、
余計な感情を入れる余地がない。否、入れてはならないのだ。
内容こそ100%であり、ガワを飾るのは無能である。
内容と形式が客観主義に100%一致しているのが理系の文章だ。


ところが。
少なくとも物語や詩は、理系の文章ではないのだ。
理系の文章は、モチーフとテーマなんて難しいことはしない。
新しい概念があれば新しい言葉を定義し、そこから論を展開する。
しかし物語や詩は、
今身近にあるものだけで、新しい概念を表現しようとするのである。
前者がモチーフであり、後者がテーマだ。

国語の客観主義は、これを混同しているのだ。

モチーフに表れたものは、
作者がテーマをどうにかして表現しようとした、
道具に過ぎない。
その奥を読み取ってほしいが為のものである。
だから部分引用なんてもっての他だ。
全体でようやく意味をなすべきものなのだ。


国語教育は、客観主義で読むべき文章(説明文)と、
そうではない表現文があることを、まず教えるべきだ。
表現文は説明文ではないから、
間違うこともあるし、拙いこともあることを教えるべきだ。
その中にある「真意」を汲み取ることを教えるべきだ。

CMやドラマにクレームが集中して、オンエア中止になるのは、
不寛容というよりも、「表現はモチーフを使ってテーマを言う」ことの、
不理解があるような気がする。
クレームはモチーフに集中するからだ。

そして読解というものに100%はなく、解釈は自由である、
という芸術的素養が本当は必要なのだ。
国語を正解を探す教育にしては、本当はいかんのだ。
正解を探す教育にするから、客観主義しかやりようがないのだ。

僕の表現の最初の先生は、
その国語教師であった中條先生だ。
そんなことを教えてくれたかどうか覚えていないが、
ひたすら作文をやらせてくれた。週一必ずだ。
俳句や短歌や小説やリレー小説もあったと思う。
そしてそれに点数をつけなかった。
俺がいいと思う三作品を朗読する、ということだけを淡々とやっていた。
いいと思うということはどういうことかを、
ひたすらやっていた授業だった。
僕はわりと常連で、その時の自信が今に繋がっているような気がする。

正しいとか間違ってるとかでない軸が世の中にあって、
それは何かを使って何かを言おうとしていて、
それは公式や誰かが解いたことではない、
新しいことだ、
という、表現者として一番大事なことを、
僕はそこから学んでいると思う。


問題は表面的なことではない。
それを使って何を表そうとしたのか、である。
言葉は完成品ではなく道具だ。
そんな簡単なことすら、客観主義に飲み込まれている。

客観主義を止めよ。
それはピカソにデッサンが狂っているという馬鹿に等しい。
客観テスト50、作文50(点数は順位付け)の配分にせよ。
中学ぐらいから、それはやったほうがいい。
(中條先生は中三の担任で、そのとき初めて文化祭で僕の脚本で映画を撮った)

そうすれば、パクりが恥ずかしいことや、
表面でなく中身を見ようとすることや、
ガワに騙されないことや、
アホクレームが来ても、表現がご不快かも知れませんが、
それは我々が下手なのであって、真意を汲んでください、と撃退するような、
世の中が実現していくかも知れない。
posted by おおおかとしひこ at 13:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック