全体と部分の関係を客観的にとらえ、
「この全体だとすると、この部分で構成されると面白い」と、
発想できる力。
例えば。
実写「風魔の小次郎」を例に。
全体は、「風魔vs夜叉」だ。
組織と組織の戦い(コンフリクト)だが、別の原理の戦いでもある。
原作に別の原理の戦いという要素はないが、
コンフリクトを面白くするため、別の原理の戦いという要素を入れようと思った。
原作は全員学ランであるが、
絵面が地味になるのを避けるのと、敵味方の区別をしやすくするため、
学ランvs紫の長ランにビジュアル上したので、
「別の原理の戦い」にしたほうが面白くなると思った。
漫画は動かないが、ムービーとは動きだ。
動きで見せるには、対比的にしたほうが面白い。
別の原理、とは、物凄く簡単に言うと、
「仲が良い組織」vs「仲が悪い組織」である。
構成力は、ここから発揮される。
全体がそうだとすると、
仲の良い風魔の中に仲が悪い奴がいてもいいし、
仲が悪い夜叉の中に仲の良い奴がいてもいい、
そのほうが単調にならないばかりか、
メインコンフリクトを逆側から描けるので面白い、
と考えるのである。
言うまでもなく、項羽と小龍、紫炎と白虎のエピソードだ。
仲の良い集団の中の、仲の悪い奴らvs仲の悪い集団の中の、仲の良い奴ら
という対比になっていることも要注意だ。
原作のエピソードを利用して、大枠のコンフリクトのサブコンフリクトを、
このように作り上げることこそ、構成力の賜物である。
また、小次郎と竜魔の微妙な確執、
武蔵と壬生の友情、第三勢力としての陽炎、
なども、同様にサブコンフリクトとなっている。
逆に、メインコンフリクトに関わる部分は、
小次郎と麗羅、小次郎と劉鵬、霧風、小次郎と姫子などだ。
これらを、メインコンフリクトから導きだし、
そのような部分をつくったほうが面白い、
と発想できる力が構成力だ。
(実際に書くときは別の執筆力が必要)
或いは、
裏切者が出ると面白い(蘭子が武蔵に惚れて寝返るというアイデアもあった)
とか、
間に挟まれる奴がいると面白い(絵里奈がその役割を果たした)
とかの発想も同時に行われた。
小次郎と姫子のラブストーリーだけじゃストレート過ぎるから、
蘭子×竜魔をつくろう、と考えつくのも構成力だ。
メインコンフリクトにサブコンフリクトを組み合わせる力である。
構成力は、料理をつくるときに似ている。
メインディッシュを決めたとき、
そこに至る前菜やその他をどう構成するか、
と考えることに似ている。
材料を組み合わせ、的確な組み合わせに収斂させていくことに近い。
それには、大雑把に考える力が重要だ。
それは、細かい執筆が出来るという自信があるから出来るのだ。
料理だって包丁が下手なら、包丁を使わない料理の構成になっていくだろう。
何でも書ける自信がないと、
逆にその実力がないと、
大雑把に構成する能力は、裏付けのない素人考えと区別がつかなくなってしまう。
あるいは、構成は、メインコンフリクト、テーマ、
メインディッシュありきである。
それが変わってしまえば、構成も変わってしまう。
バカな人は、それを簡単に変えてしまう。
それを変えたら構成ごと変えなければならないことを知らないバカほど、
簡単にテーマやメインコンフリクトを朝令暮改し、
ぐだぐだの脚本にしてしまう。
良い構成とは、メインコンフリクトやテーマに対し、
的確でしかも面白いサブコンフリクトやサブテーマのエピソードが、
無駄なくいいバランスで配置されていることだ。
あるいは、メインコンフリクトそのものも、
的確で面白い導入、展開、結末がきっちりとあることである。
お話を書くことは、お喋りをすることではない。
その場の思いつきで面白いことを言って、
飽きたら別の話題にうつり、ぐだぐたになったら帰るわ、
とか、適当にまとめる、
ということではない。
明確なテーマがあり、それを示す落ちがあり、
その為の導入と展開と結末があり、
メインテーマに対するサブテーマがきちんと構成されていることを言う。
つまり、構成が行き届いていることを言う。
構成力があるが執筆力がない人がいる。
構成作家だ。
テレビ番組で、テーマや話題だけ決めて、
スタジオやロケの配分や、コーナーを決めたりシーンの順番を決めることを言う。
実際にはその方向性で、芸人などが、
アドリブで話をする。
言葉のセンスやリズムや笑いの取り方は芸人に任せる方式だ。
放送台本は、構成(各パートの分数や話題や、転換のきっかけ)は書かれていても、
具体的にどんな台詞を発するかは書いていない場合が殆どだ。
「(ここで○○の話をする、以下フリートーク)」みたいな書き方が多い。
昔は一字一句書いてあったのだろうが、
次第に各人のリアルな言葉のほうが上回ってきて、
作家が書く意味がなくなったのだろう。
逆に一字一句書いてあるのは、
アナウンサーの言葉と、ドラマだけなのかも知れない。
だから構成作家は、構成力があっても、
実際に執筆力がないことが多い。
構成作家の書いたドラマは、方向性は悪くないのだがいまいちというのは、
ここに起因することが殆どだ。
また、小説専門家は、執筆力があるが構成力がないこともある。
目の前の原稿ばかり見て、俯瞰する習慣がないからかも知れない。
構成力をつけるには、
大雑把なプロットを沢山書くことだ。
自分の話のプロット、他の人の話のプロットを、
山ほど書いてみることだ。
書くだけではなく、頭のなかで構成をいじったり、
実際にいじったものを書いてみることだ。
メインコンフリクトとサブコンフリクトの関係や、
メインプロットとテーマの関係や、
その面白い構成法を、実地で学ぶことである。
構成力に優れた映画は、世の中に沢山ある。
というか、構成力に優れることは、名作の条件だ。
構成がぐだぐだの映画は名作にはなれない。
僕が優れていると思うのは、ビリー・ワイルダー作品が多い。
(とりあえず「情婦」「アパートの鍵、貸します」「サンセット大通り」を挙げておこう)
ドイツ人だからか、構成がしっかりしている。
逆にフランス映画は構成はぐだぐだだが執筆力に長けている気がする。
女性作家は、気持ちを描くのはとても上手だが、
構成力に欠けていると僕は感じる。
(女性は構成に興味や感性がない、という仮説すら立てている)
構成は建築の骨組みによく例えられる。
建築の骨組みを勉強するなら設計図を見ることが出来るが、
映画の構成を勉強するなら、自分でプロットを書き下すしかない。
実はプロの脚本家の多くは、誰もが自力でその勉強をしてきた人が多い。
誰もが自作の名作プロットノートを持っていたりする。
そんなものを出版する人、いないかね。
(それがその映画の的確なプロットかどうかで、
議論百出しそうだけど)
2015年01月12日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック