あんまりテーマの事を考えすぎると、
宗教になってしまう。
あるいは既存の価値観を壊すテーマこそ素晴らしいという、
アンチテーマ主義になってしまう。
どちらも対して面白くない。
昔の説話物語は、
大抵が仏教説話である。
悪いことすると地獄に落ちるとか、
良いことをすると仏に誉められる、とか、
分かりやすく仏教の教えを物語形式にしたものが多い。
仏教に限らず、物語形式で親しみやすくして布教するのは、
古来からある考え方だ。
それは神話から、新興宗教まで様々だ。
(エルカンターレという映画さえつくるしゅうだんもいる)
だが、それを言わんがための物語、とばれてしまうと、
お話は途端に面白くなくなる。
プロパガンダだとばれてしまうと、人は興味を失う。
(信者とはよく言ったもので、
それらを無批判に信じる一定の人達がいることは事実だ)
だから、
ただ正しいことや、
ただそれを全否定することや、
特定の宗教のヘンテコな教え(それは俺教も含む)を、
テーマにするべきではない。
人はあるテーマを突きつけられて、
それが今の世の中で本当らしいことかどうかは、
直感的に判断するものだ。
どう考えてもヘンテコならば、嘘だろそれと思うのだ。
テーマに選ぶべきは、
「なんとなく本当っぽいこと」がよい。
全員がなんとなく本当だろうな、と思っていて、
しかもまだ定説になっていない、微妙なものがいい。
しかもそれが、
従来の定説の新バージョンであったり、
従来の定説を覆すものであると、
更に良い。
この絶妙なテーマ選びが出来れば、
あなたは半分勝ったようなものだ。
実際には、説教くさいテーマになるくらいなら、
モチーフの面白さに逃げると言いだろう。
例えばどうでもいい諺を、
全く斬新なモチーフや絵面で表現出来れば、
それは斬新な物語になりうるだろう。
(お笑いの大喜利でもよくある。
「ぬかに釘」を現代的に書き直してください、とかだ。
「既読無視にもう一通送る」にモチーフを書き換えるだけで、
現代的なショートフィルムのネタになると思う)
テーマはあなたの主張ではなく、
それを言われると、なるほど、と思えて、
そうだと俺も思っていたんだよ、言葉にしてくれて有り難う、
と思えるぐらいのものが一番いい。
そういう意味で、あなたは宗教家ではなく、
集合的無意識を探る人になるべきだ。
勿論、既に受けたテーマを真似するのは、
オリジナルを作る者として言語道断だ。
「受けそうにないテーマ」が世の中にあるのは、
それは集合的無意識の中に希薄だからだ。
まだ発掘されていない、集合的無意識を探すべきだ。
テーマを決めることは、多分一番難しい。
慣れないうちは他人のテーマを自分なりに書き換えるのがよいが、
全く0からテーマを見つける訓練も、同時にしたほうがいい。
考えすぎると宗教になるから、
ふっと思うことが多分正解だ。
(技術習得は誰にでも出来るが、
そういう嗅覚だけは天性のような気もする)
2015年01月12日
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