2015年01月17日

憧れとなりきり2:男女差

登場人物への観客の態度は、憧れとなりきりの二種がある。
憧れは他者に対するもので、
なりきりは自分との一体化、すなわち感情移入だ。

男女で、憧れとなりきりの配分が変わってくるという仮説。
(以下の話は、統計的有意差があるという話であって、
個人の感想ではなく、集団としての感想の差だと思われたい)

例えば実写風魔の人物造形で。



姫子は、半分憧れ、半分なりきることが出来るキャラクターだ。
これは男女ともそうだと思う。
(なりきる感情移入は、主に10話に行われる)

蘭子は、男女で見方が違う。
男から見れば、憧れよりなりきり要素が強い。
女から見れば、なりきるというより憧れの要素が強いキャラクターだ。


差はどこにあるのだろう。

肉体的要素が、ひとつあると思う。

女は、「男の暴力的要素」になりきることが出来ない。
だから蘭子さんの鞭さばきや、
長身のスタイルの良さを見て、
自分がなりきるのはしんどいと直感する。

だから憧れの気持ちでまず蘭子さんを見る。
小次郎とのやり取りは、
自分が蘭子になり切ってする会話ではなく、
他人の面白い会話として見るようになる。
(そのような会話であるように書いている)

蘭子さんの気持ちが分かる第二話で、
男は感情移入する。「女を好きだという肉体を持っている」からだと思う。
女は感情移入するというより、共感することで、
憧れの蘭子さんの友達になったような気がするはずだ。

だから、女から見た蘭子さんのラブストーリーは、
なりきる対象ではなく、
他人がやると面白い、コメディ調なのである。
これは狙ってやったことで、成功している。
蘭子さんが最後に眼帯を奪うことで、
なりきるというよりは、蘭子さん頑張った、と、
他人を応援するような感覚になるはずである。

一方男にとっての蘭子さんはなりきりだから、
蘭子さんのコメディラブストーリーは、
自分に起こりうることの女版として見ているはずだ。
だから副団長の男気に笑い、かつ泣けるのである。
(女は副団長を、なりきるというよりは他人として見るだろう。
一方男は副団長になりきって見てしまう。
あのエピソードは、男にとっては、自分が自分を応援する話なのだ)

ラスト、蘭子と小次郎が縁側で寝そべるのは、
男同士の友情に、男なら見える。
姉弟の友情に、女なら見えていると思っている。


一方、姫子と小次郎のラブストーリーは、
どちらも憧れ半分なりきり半分のキャラクターだから、
男女ともに健康に見られるものになっているはずだ。
男なら小次郎のように姫子の心を動かしたいと思うし、
女なら小次郎のように告白されたいと、普通に思うだろう。
あるいは、小次郎にも姫子にも、ほぼ等しく感情移入できるだろう。


通常、女の観客はヒロインに嫉妬するので、
女だけを観客にする作品以外で、
ラブストーリーをまともに機能させることは難しいと言われる。
(余計な恋愛要素いれんじゃねえ、とよく言われる)
風魔の小次郎姫子のラインは、
男女とも人気の高い、王道のラブストーリーだ。
それを機能させるには腕がいる。
ヒーローとヒロインに、男女ともに、
憧れとなりきりの半々を同居させるという、
困難なことを達成させなければならないからだ。


また、竜魔は、男女ともに、憧れ側のキャラクターである。
だから竜魔と蘭子のエピソードは、
男からは憧れの人に振られる自分の話として、
女からは憧れの人が憧れの人に振られる話として、
見えていることになる。

そして、ここからがひねくれた狙いなのだが、
腐女子という人が多く見ていることを意識している。
そのような人は、ただの世間通りの女ではない(いい意味で)から、
世間通りの女である姫子よりも、
そうじゃない特殊な女としての、蘭子により感情移入するだろうことを狙っている。

そのような人たちは自分から告白して成功したことは希だろうから、
蘭子の告白は、失敗することで共感を得るように狙った。
あそこで告白が成功していたら、
竜魔蘭子の話はここまで人気が無いはずだ。
この瞬間、世間から見たらやや特殊な女子たちは、
蘭子になりきる糸口を得るのである。
最終回の、眼帯を奪うという、自分にはとても出来ない憧れの行動で、
蘭子さんの株はさらに上がるのだ。



他に、男女で大きく憧れとなりきりが違う人物がいる。
麗羅だ。
男にとっては、麗羅は過去の自分だ。
男になる前の、子供の頃の自分である。
だから麗羅に感情移入することは、過去の自分になりきることだ。
憧れなどない。過去にしてきたことだからだ。
麗羅の初々しさを懐かしむことはあっても、憧れることはない。

一方、女にとっては、なりきりではなく憧れである。
少なくとも過去の自分ではなく、完全なる他者だ。
年齢の高い人には、弟キャラとしての憧れ、
年齢の低い人には、同世代の憧れ、
となるようにキャラクターを設定し、会話をさせている。

だから麗羅の死は、女にとっては憧れの人の死であり、
ただ悲劇だ。
男にとっての麗羅の死は、乗り越えなければならない試練として解釈される。
過去の自分だからだ。
過去の自分と決別して、男になった男が、
麗羅の死を、通過儀礼として認識するのである。

男は、だから、小次郎により感情移入し、なりきりの度合いを強くする。
女はどうだろう。ただ悲しいだけかも知れないね。
何も死ななくても良かったんじゃないか、と理不尽を感じるかも知れない。
麗羅の死の意味は、男女で受け取り方が、ここまで違うと思っている。

でも、大人の視聴者ならば、
それが通過儀礼であることぐらい分かる筈だ。
原作世代ではない、麗羅が死ぬことを知らなかった、
イケメン目当ての中高生の女子あたりの視聴者が、
一番理不尽に感じたのではないだろうか。
ごめんね。大人になったら分かると思うよ。




登場人物への憧れとなりきりの配分は、男女差がある。
同性へなりきりの度合いが深く、
異性へ憧れの度合いが深いのは、
簡単に想像できるだろう。
しかし、それだけではない。
異性にもなりきりの度合いは深められるし、
同性にも憧れの度合いは深められる。
それはキャラクターとストーリー次第だ。

この人物がこの話の中で、
男女にどう憧れやなりきりをされているか、
想像することは、客観性を保つ訓練になるだろう。
そうやって離れて自作を見ながらも、
なおかつ最前列のかぶきつきで、作品をつくっていくことが、
脚本家に求められることである。
posted by おおおかとしひこ at 02:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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