説明のしかたについて、書いてみた。
だが、あれだけでは説明にならない。
何故か。
その説明を聞いてもらえるとは限らないからだ。
退屈な授業がそうだ。
何故説明を聞いて理解しなければならないか、
分からないから授業を聞かないのだ。
大学受験に必要だから、というのはひとつの理屈でしかない。
昔、物理のとても魅力的な授業の話をしたけど、
それから僕は何のために方程式を勉強するのか分かったから、
数学をちゃんと扱えるように努力したのである。
つまり、
説明を聞くには、説明を是非とも聞きたい、というモチベーションがないと、
駄目なのである。
説明上手な人は、そこがそもそも上手である。
大抵は、あなたの常識を一度崩して驚かせる。
先入観と違ったでしょう?本当はこうなんですよ、
と説明に誘導する。
あるいは、身近なことに引き付けながら、
実はその裏にはこんなことがあるんです、
なんて卑近なところから説明に入る。
他に色々パターンはあるだろう。
映画の場合は、感情移入していれば、
説明を聞くのは対して苦ではない。
その人物が説明を聞きたいような文脈で説明すれば、
なんの苦でもない。
どのようにして説明を聞きたいような場面にするかは、
またまた色々なパターンがあるだろう。
一番簡単なのは、謎を振っておくことだ。
どうしてもこれを知らないと先に進めない状況をつくり、
何故なんだ、どうしてだ、と言わせるようにして、
説明をはじめればよいのである。
説明は、説明そのものが全てではない。
説明を聞きたいような状況にすることが、既に説明の一部なのだ。
柔道の投げのようなものだ。
柔道の投げは、力任せに投げるのではない。
一端押す。相手が押し返してくる。その力を利用して引いて投げる。
あるいは一端引く。相手は引かれないように後ろに重心をうつす。
その勢いを利用して押して投げるのだ。
その最初の動作をつくりという。
投げは、投げだけで投げではない。
つくりと投げのセットで、投げである。
それがきれいに決まる時が、本当に投げが決まったときだ。
説明も同じだ。
興味の誘導と、その種明かしである説明が、
ワンセットで説明なのだ。
そうでない説明は、力任せの投げと一緒で、
うざいのである。
2015年01月17日
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