2015年01月18日

ターニングポイント2

映画にいくつターニングポイントがあればいいか、
について僕は明確な解答がわからない。

デカイのはひとけた個、
中くらいのはふたけた個、
細かいのはみけた個、ぐらいが妥当なところだと思う。
シナリオによるし、数え方にもよると思う。

しかし、その中で特別なものがあるのも確かだ。


最も特別なものは、
最初のターニングポイントと、最後のターニングポイントだ。


それまで日常だったものが、
ターニングポイント(大抵外からの事件)によって、
違うものに変わる瞬間だ。

このターニングポイントを契機として、
日常は非日常側へ徐々にはいってゆく。

様々なターニングポイントを経て、
最後のターニングポイントとは、
「解決した」である。

これがあることで、元の日常へ戻れるのだ。
これ以上事件が起こることはない、
もう帰っていいですよ、おしまい、のターニングポイントがこれである。
(13日の金曜日などは、このミスリードのラストが待っているよね)


物語とは、
この二つのターニングポイントの間に挟まれた、
日常世界を逸脱した、ひとときの出来事である。


映画が始まってしばらくは、
日常を描くのが普通である。
それは、特別なことの始まりの前の、
特別でないことを描くためだ。
最初のターニングポイントはこれを覆すから、
覆すその前を描くのである。

ついでに、基本設定や、既にバックストーリーがあって、
ただ何もない日常ではなく、
どこかへ向かいつつあることを示したりもする。
ハリウッドでは、大体これは5分から8分と言われている。
(原稿用紙で5から8枚、つまり2000字から3200字程度)
勿論ただダラダラするのではなく、
のちのち使う主な伏線を仕込む場所であることは、
既に知っているだろう。

「説明のしかた」の議論の原則に従えば、
ここで映画で扱う世界の「全体」を見せておく。
これ以降は部分に入るからである。
逆に、映画では、最初に前提となる全体を見せるのは、
120分として4%から7%程度しか余裕がない。
(15秒に換算すれば、18フレームから31フレーム程度)

ブレイク・シュナイダーによれば、
開始5分で、テーマに関する台詞を誰かがさらりと言うらしい。
つまりこれは、映画全体のセットアップを無意識にしているということだ。


最初のターニングポイントが訪れると、
焦点が変わる。
大なり小なりの目的が生じるのだ。

あとは、映画とは、
その生じた目的をターニングポイントで上手く変えていきながら、
最後のターニングポイントまで一本の糸に結びつけることに他ならない。

最後のターニングポイントで、
それまでの目的はすべて消失する。
もう何かをする必要もなくなった、ということだ。
あとは幸せに暮らしました、めでたしめでたし、である。


つまり、映画とは、
日常に挟まれたターニングポイントの一連の連鎖だ。

日常から非日常側へどんどんスリップしてゆき、
元に戻れなくなり、
最後には日常へ帰還することである。
(そのときに何かが変化していれば、
それがその冒険の価値であった、ということが定番だ)

それらは、全て、目的とターニングポイントの連鎖を持っているのだ。


物語には骨格がある、
と感じる人は多い。

直感的に思う構造は、人物関係図であったり、
地理的な関係図だったりする。
しかしそれは時系列を持たない静止画的構造だから、
時間軸に関する構造がある、
という脚本論に、最初はびっくりする。

起承転結や序論本論結論などが、国語で習う範囲だが、
ハリウッドではこれらの考え方はすすんでいて、
構成だ、とか、三幕構造だ、とか、
ログラインだ、とか、プロットだ、
とか、コンフリクトだ、などなどだ。

こう言われると、なるほどその通りだ、と思い、
それを構築したり分析したりしようとするものだ。

しかし骨格とは、動かないから骨格なのだ。
(事実、三幕構造は、所定のものを所定の時間にすること、である)
骨格をいくら勉強しても、それは静的なものであり、
恐竜の骨格を研究するみたいな感じで、
動的な一番ダイナミックな部分は学べないと僕は思う。
(勿論、これは基礎としてはやるべきだ)

その動的な部分を仮に筋肉とか血液とか呼ぶとすれば、
それに当たるのが、
この目的とターニングポイントの連鎖である、
と僕は考えている。


寡聞にして僕はこれに関する理論があるかどうかは分からないが、
これらは具体的な執筆と関係してくる部分だから、
理論化しにくいのかも知れない。
個別研究のようになってしまうかもだ。


目的には大目的(センタークエスチョン)、
小目的、野望(作中では叶えられないこと)、
などの様々な階層があるという話もしたと思う。

それらが、ターニングポイントによって、
どう変化していくか、
誰の(誰の陣営の)ものが変化していくか、
などの動的記録こそが物語ではないかと思っている。
(そしてそれに思う人物の感情こそが、
我々の関心である)

それは図に書けない、動きそのものだ。
年表みたいに書くことは出来るけど。



デカイターニングポイントは、他にいくつかある。
第一ターニングポイント、第二ターニングポイント、
ミッドポイント(ない場合も)だ。

それより小さな中くらいのターニングポイントは、
どこに配置してもいいと思う。
これらに関する僕独自の理論はあるのだが、
これは今のところ門外不出にしている。
僕がとても成功したら、その理論の正しさが証明されるだろう、
と希望的に考えているけど。(そしたら本でも出しますわ)
それをとても圧縮したのが、異物論(仮)だ。
コンパクトにして使いやすいと思う。


名作を研究しよう。
時間軸の構造の骨格を研究することがひとつ。
血肉にあたる、目的とターニングポイントの連鎖を研究することがひとつ。
posted by おおおかとしひこ at 16:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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