2015年01月19日

アイデアを練ること

結局、幻魔大戦は完結しなかった。

小説版幻魔大戦は、特異な物語だ。
月一冊出してたって。それで20巻まで出したって。
作者の平井和正自身、とりつかれたように書いていたそうだ。
アイデアが湧いて湧いてしょうがなかったのだろう。
そのような無敵状態は、一生に何度もない。
しかし、それ任せで書いていたからこそ、
完結できなかったのだろう。

アマチュアが、アイデアが湧いて書き始めるんですけど、
最後まで書けないんです、と言っているやつの、
物凄い版なだけだ。
幻魔大戦を例に、何故完結できないのかについて考えてみる。



アイデアを練るとき、
最初のスパークポイントみたいなのがある。
これまで考えてきたことが突然噛み合い、
音をたてて発展する瞬間だ。

しかし、経験上、
この思い付きは時間限定で、
ある程度の時が過ぎると枯渇する。

あとは、それをまとめあげなければ、
決して最後まで書くことは出来ない。

逆に言えば、最後まで書くことは、
途中のスパークが終わっても尚、
最後まで書ける力のことだ。


幻魔大戦には、ものすごいバリエーションがある。
漫画版幻魔大戦(石森章太郎と共著)、
小説版真幻魔大戦、幻魔大戦、新幻魔大戦、
ハルマゲドン(第二期幻魔大戦)、ハルマゲドンの少女、
あとdeepとかの小さな物語。

これらの話はどれもパラレルワールドであり、
どれも大きな構図は同じで、
人物は同じだが微妙に異なる。
しかもどれも未完結なのである。

これを見て何かを思い出さないか。

構想中、をである。


アイデアを練るときの、
バージョン違いのようなものなのである。


あるアイデアを元に構想を練るとき、
ああでもない、こうでもないと、
バージョンを違えて試して見ることはよくある。
ルナ王女が東丈と出会わなかった場合、
ラブストーリーエンド、
アルコール依存症になった場合、ならなかった場合、
三千子が死ぬ場合、生きている場合。
東丈の両親がいる場合、いない場合。
時間軸を高校生にとるか、その後の大人にとるか。


これらは、アイデアで練るのならいくらでもやるものだ。
そして全体像を最後まで書き、
最も面白く、テーマを示すバージョンをひとつに集約してから、
執筆することがプロのやり方である。

ところが、幻魔大戦は、
恐らくそれをやらずに、まず書きはじめてしまったのだ。
構想中にアイデアのスパークをやらず、
書いている途中にスパークが来てしまったのだ。
そして、最後まで書けなかった。
アマチュアと同じだ。
最後まで構想していなかったのだ。

そして、別バージョンならうまく書けるかも知れない、
と、別バージョンの思いつきを試してみる。
それが駄目になるのも目に見えている。
最初の思いつきより、
次以降の思いつきが量的に減っていくのは、
誰もが経験することだ。
最初のスパークが最も量が多い。
爆発的に広がるのは、最初の一回だけで、
他はそれのバージョン違いになるからだ。
(僕は生物の進化に似ていると思う)

幻魔大戦は、それを、アイデア段階でやらずに、
執筆段階でやってしまったのだ。

いくつもある未完結のバージョン違いは、
どれも、最後まで書けるアイデアのバージョンではなかったのだ。

無印幻魔大戦のときに、そのスパークが来たのだろう。
それ以降の全てのバージョンが、
それより短い、という事実がそれを示している。



僕は中学当時、無印幻魔を単行本の古本で読んでいて、
世間のブームからちょっと遅れていたと思う。
が、文章から迸るオーラのようなものが凄まじく、
とにかくそれに圧倒されて読んでいた。
これは一体どうなってしまうのだろう、と本気で心配した。

嘘つきのよくあること。
ひとつの嘘をついて、それが矛盾しないように嘘をつく。
最初は小さな嘘だったのだが、
嘘に嘘が重なって、とてつもない体系になってしまう。
が、それ以上嘘を重ねることを思いつかず、
姿を消してしまう。
最後まで嘘をつききることは出来なかったからだ。

別の場所にいき、
最初についた嘘をちょっと変えれば、
最後まで嘘をつききれそうな気がする。
しかしそれもつききれず、別の場所に逃げる。

要するにその繰返しが、幻魔大戦だったのではないか。


そもそも超能力戦士が、宇宙意識体に導かれて覚醒し、
宇宙的な敵幻魔と超能力合戦をする、という、
八犬伝ベースの荒唐無稽な大枠である。

それに生まれ変わりのアイデアを足そうが、
タイムリープのアイデアを足そうが、
ラストは地球での対幻魔の勝利であるはずだ。
それこそが大戦でありハルマゲドンになるはずだ。
結局そのクライマックスが来ることなく、
全てのバージョンは、ハルマゲドン来る来る詐欺に終わってしまった。

小説版は、当初の大枠をはずれ、
GENKENという東丈が主宰する団体を中心とした、
新興宗教の人間関係小説へねじれ、爆発していく。
井沢郁江や高鳥慶輔と言った魅力的人物像は、
のちのオウムの人間関係のようである。
東丈が理由も分からず突然失踪し、
残された人々の右往左往が中盤からのメインとなる。
何故神は我々を見捨て再臨しないのか、という、
教祖のいない宗教団体の小説の様相となる。

これはアイデアの暴走だ。

構想中よくあることだ。
構想中、様々なアイデアがスパークするときの、
ひとつのスパークだ。

構想中なら、これはいかんと自覚する。
大枠と外れているではないか、
覚醒したルナ王女とベガの元に集結し、幻魔大戦を闘うという、
そもそもから外れていると自覚し、
彼らのごたごたを縮小して、幻魔侵攻との対決ものを主軸にするか、
あるいはごたごたが面白いので、ごたごたを主軸にするか、
決めなければならないのだ。

一本の話にふたつの話が同居してはいけない。

当初の構想を完成させるか、
新しく出たアイデアを生かして古い衣は捨てて、
それをオリジナルとして完成させるか、
どちらかを選ばなければならない。

構想中にだ。


構想中に話を完成させ、
あとは執筆するだけだ、
という状態が、プロのやり方である。

構想も終わらずに書き始めると、
必ずどこかで嘘が破綻する。
アイデアの暴走によってだ。


あなたが構想をするとき、
「出来た(しかも良く出来た)」と思うのは、
何本のうち一本だろう。
思いついたアイデアはどれも話になりそうだが、
最後まで出来たのは、何分の一か。
僕は、1/50ぐらいだ。
一本書くのに、49本分のアイデアを捨てる。

つまり、これを構想でなく執筆でやると、
49/50で失敗する(最後まで書けなくなるか、詰まらないラストになる)のだ。

逆に考えれば、構想とは、
脱落することなく完結し、
しかもテーマも良く、話も良く出来ている、
ものを作ることなのである。

僕が短編を沢山書くのを勧めるのは、完結する癖をつけるためだ。
それくらい、うまく完結する(落ちがつく)ことは難しいのだ。



幻魔大戦は、執筆で構想をやってしまった、
失敗した作品である。
アイデアが良くなかった、とバージョン違いを書いては、
どれも違うか、と放り出した作品群である。

そのアイデアのスパークは凄まじく、
それだけで見る価値はあるかも知れない。
しかしそれはスパークの記録であり、
結局は物語ではないのである。

奇しくも、作者平井和正は、憑依されて書いているような事を言っていた。
言霊使いだとも。
永井豪にとりついたスパークは、時期が良かったのか、
デビルマンの後半1/3に来て、それは大傑作を書かしめた。
(それ以後の永井は、何を描いてもデビルマンを越えられず、
作家的スランプに陥ることになる)



スパークは、構想段階に起こせ。
執筆に起こしてはならない。

構想とは、完結した、良く出来た物語をつくること。
執筆とは、それにとりつかれて自動書記することだ。
スパークは、執筆のものより、構想のものを最大とせよ。
もし執筆中に構想より大きなスパークが来たら、
構想に戻り、完結した良く出来た物語にしてから、
一から書き直せ。

幻魔大戦は、その失敗を我々に教えてくれる。

あと、ガラスの仮面とベルセルクは、完結するのか。
ゴルゴ13の最終回は決まっているらしい。
どちらが名作になるかは、完結で確定する。



つまり。
完結出来ない奴は、完結して評価が確定するのが怖いから、
完結出来ないのだ。

僕はプロットを一番重視する。
完結して、評価を確定出来るからだ。

物語とは、終わりを書くことである。
途中で辞めることではない。
posted by おおおかとしひこ at 12:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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